虹 夢
 
 
     1.
 
 サキが最初に彼に会ったのは、秋の終りの暗く寂しい夜だった。
その晩、サキは闘って、深い傷を負い、無数にはりめぐらされた敵の目に、仲間との連絡を断たれたまま、ずたぼろになった身体(からだ)と心で深夜の街をさ迷っていた。
傷の出血はひどくなるばかり。もうろうとした意識の中で、ビルの一画の、ただひとつ灯(ともしび)の薄明るくもれちた彼の部屋に援助(たすけ)を求めた。
 彼は、サキが示した身分証明カードにさして驚く風もなく何一つ聞かずにだまって傷の手当てをしてくれた。
その手馴れた様子に、医学生ですかと、傷のためのにわかな熱の下からサキが尋ねると、いや、と彼は少しさびしげに答えた。
「自分が病弱だかr、医局通いのうちに自然に覚えたんだよ。」
 壁がはげ落ち、ドアのゆがんだ、その殺風景な部屋には、雑然と積みかさねられた幾十枚ものキャンヴァスと、油絵の具と、イーゼルとが、使い古されて置かれていた。
少し落ちついてからそれに気づいたサキはああ、と思った。
「迷惑をかけてしまったみたい。徹夜で描いていたのでしょう。このお礼はきっとするから……」
お礼という言葉を彼は否定した。
彼の方でサキに感謝したいくらいだと言った。
なぜかとサキが問い返すと彼は、言いにくそうに暗い顔でちょっと笑って、
「君が来なかったら、今ごろおれはこの世にいなかったからさ」
そこのコードで首でも吊って  と、彼は天井にあごをしゃくってみせた。
「おれは君たちのことはある程度知ってる。絵描き仲間の一人から聞いたんだ。」
 サキのよく知っている名前を彼はあげた。
それは確かにサキのよく知っている名前だったので、サキはぼんやりとうなずいた。
  わたしの生きざまを知っているから、それで自分が恥かしくなって死ぬのをやめたと言うの?

サキは語りかけはしなかった。
横たわったままじっと彼のうつむいた横顔を見つめていた。
もっと何か話したかったのだが、疲れて、体がいうことを聞かない。
それに、眠って、少しでも回復しておく必要があった。
彼女は戦わなければならないのだから。
 サキはふうっと目を閉じた。
  逃げたいのは、わたしなのに。いつだって。
 夜半、サキはひどくうなされて、眠ったまま、声をたてずに泣いた。
深く眠っているのにも関ず、サキは、声を秘めて泣いたのである。
 彼はじっとサキを見つめていたが、そのうちに思いついたように画帳をとりだして彼女を描きはじめた。
そうして時折サキがひどく苦しそうな時には、手を休めて、サキのきつく握りしめられた指を優しく解き放してやった。
 彼の眼は一瞬閉じられ、それから床の上n、彼が今日破り捨てたばかりの一枚のカレンダーの上にそそがれた。
  しかたがないじゃないか。
彼はカレンダーを拾いあげた。
彼自身が口に出して認めたごとく、サキが来るえの死のうと思った気持ちは不思議におだやかに静まり、ただ静かな決意だけが胸の中を満たしていた。
残されたわずかな時間、やれるだけはやってから  と、彼は思った。
なぜそんなにもあっさりと覚悟が決まったのか、彼自身にもわからなかった。
 
 翌朝、夜明けてすぐに受けとった緊急事態発生(スクランブル)信号のために、サキは熱の引かない、わずかに出血が止まっただけという状態をおして出て行った。
出際に、
「一ヶ月、待っていてもらえるかな。あと一ヶ月以内には、わたしらが今追っている  現存の悪の組織(マフィア)の総元締めなんだけど  をたたく。良かれ悪しかれ、その時まで無事でいられたら、きっとお礼に来るから。」
 きびしくこたえているに違いない傷の苦痛をおして笑うことのできるサキを彼はただ見つめた。
「それじゃ。」
サキは一歩さがって右手をさしだした。
まるで、けがをしたのが左手でよかった、とでも言うように、自然に。
彼はその手を両手で握りかえし、目顔で、なぜそうしてまで戦いに行くのかと尋ねた。
 サキはふっと笑って、何も答えぬままに朝の光の中へ出ていた。
 
「本業は、  スパイなんかじゃないんだよ……」
 
 
 
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