あははっ。あはは。
 ほほほほほほ……
 
 ただ一面の草原(くさはら)の中、秋の日の草の実草の穂かきわけて、二歳と半のアキはあちらへ走り、こちらへ走りして、追いかけてくるサエム夫人の手からひょい、ひょいと上手に体をかわしながら、いまだ音程のそろいきらない幼い声で、鬼さんこちらを歌っていた。
 「かーさま、こちら、おーにさん、こっちら。かーさまこちら、おーにさんこっちらっ!」
 サエム夫人はと言えば、絹のハンカチで上手に目隠しをして、少し身をかがめるようにサキの頭ほどの高さに腕を伸ばし、透けるほどのきゃしゃな白い指先をひらひらとさせながら、美しい灰色の部屋着のすそが風になびいて、早いや麦わら色になり始めた草々に打たれてゆくまま、それはまるでそのまま空気の精ででもあるかのように、さらさらと流れて、サキの後を追ってゆくのだった。
 サキはそんなかあさまをすごく美しいと思い、それで少し走っていっては後ろを振り向いて、ぴょんぴょんと前かがみにはねながら、ひじから腕をぴったり胸につけるようにして、小さなあごのすぐ下の所で、あの子供独特のリズムのとりかたで、ぱあんぱん、と手をたたいた。
 ぱあん ぱん。 かあさまこっち
 ぱあん ぱん。 かあさま、追っかけてきて!
 
 ぱあん ぱん。 ぱあん ぱん。
 サキの手の指が右や左やすぐ後ろで鳴るたびに、サエム夫人は驚くほどの素速さと正確さで愛する娘のサキの方へ手を伸ばすのだが、いよいよとなるとサキはひょいと地面にすわりこんでは、その手の下をくぐりぬけてしまう。
 それで、このゲームはさっきから終りもなく続けられているのだった。

 ぱあんぱん。ほほほほほ。
 ぱあんぱん。あはは、ほほほ。

 そこは金糸色の草原の中、どこまでも続く二人だけの世界だった。
 遠くからサユリが、この世界の中に入って行けずに、草原の端に立って呼んでいた。
 「サキ、だめよ。母さんは心臓が悪いんだから。
  母さん、母さん、また発作が起きるわよっ!」
 発作という言葉を聞いて、サエム夫人はあきらかに不快の色を示して立ちどまった。
 淡い金色の世界はこわされてしまったのだ。
 現実の世界で、彼女は、あと数年、いや悪くすればこの瞬間にも停止するかもしれないと医師に保障された心臓を背負って、愛する家族に迷惑をかけながら暮している。
 サキも発作と聞いて、なんとなくはしゃぐのをやめた。
 サエム夫人はいまいましげにハンカチーフをほどいて、のろのろと家へ向って歩きだした。
 体が急に重くなったようで、足を動かすのがおっくうだった。
 サキがちょこまかとかけよってきて、長い部屋着のすそにまとわりついた。
 「ね……お話聞かせて。おはなしい!」
 はねるように元気な娘の体の暖かさを感じて、サエム夫人の重いほおはようやく少しばかりなごんだ。
 「ええ、そうねサキ。お話してあげましょうね……」
 仲よく寄りそって歩く背中を、サユリが、彼女に似合わぬ激しさで見送っていたことに、二人はついに気がつかなかった。
 
        ×     ×     ×
 
 新暦 3年 10月 2日
 
 二人種の邂逅より四年の歳月が過ぎ、新時代の娘、サキに関するマス・コミュニケーションの関心もようやく薄れてきたようです。
二歳半から始めた、幼小児教育過程も、日頃私とともに家にいる時間の長いせいもあり、本人も好きでやっていて、あと半年もあれば修了させてしまうことができるでしょう。
母親の欲目を抜きにしても、通常3〜5歳の三年間で修めるべきことを、
 
 
 
             (未完) 
 

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