三、
 
 「……ふう……ん」
真里砂が、やや上を向いた上唇に右手親指をくわえこむようにし、目線を斜め下方向に投げやってつぶやいた。
「じゃ、あなたが機密回線(シークレット・コード)で捜索命令の出ていたエイ・キヨミネなのね?  あら!」
本名を呼ばれてぎくりと体を起こそうとした鋭を見て、彼女はくすり、と笑った。
「ご免なさい。別に驚ろかすつもりではないのよ。」
  なんでだ!?」
はね起きようとしたところを、その細い見かけによらず力の強い腕で押し返されて、鋭は首だけカマキリのように持ち上げてすごい形相で尋ねた。
「なぜ君が緑衣隊の機密命令(シークレット・メッセージ)の事を知ってるんだ!」
「緑衣隊やら何やらの事ならあなたよりよほど詳しいわ。なぜ知っているかと言うと、  だめね。今はまだ話せない。あなたをどの程度まで信用していいものか解らないもの。」
「あー、わかったよ命の恩人殿!ひとには洗いざらい話させといて   
「ストップ!」
わめきたてようとする鋭を真里砂が手をたててさえぎりました。
一瞬静かになると、かたわらの泉の音が急に大きく聞こえます。
遠くで鳥たちが鳴き、小さな草地の上を昇り始めた朝の光が金緑としずくの銀青色に染めわけていました。
「あんまり興奮するようだといくら待っても回復しないわよ。わたしの事について言えばあなたに話す義理はないんだし、あなたは助けられた立場上、わたしに必要な情報を提供する義務があります。それから後なら、あなたが今後どうしたいのか言ってくれれば、できる限りの便宜を計るわ。」
「ひでえや恩の押し売りだ。あ〜あ、またとんでもない奴に助けられちまったもんだなあ」
言葉とは裏腹に、まんざらそうも思っていないくちぶりで鋭がぼやきました。
連日の命がけの逃避行の後に、昼寝の夢のような穏やかな時間が不意に訪れたもので、彼はすっかりくつろいで見ず知らずの少女を全面的に信用する気になっていたのです。
鋭の気持ちを感じとったのか、真里砂が真珠色の歯列をのぞかせてニッと笑いました。
「ねえ、何だか初めて会ったんだという気しないわ。」
「あれ、僕もだよ。既視感(デジャ・ヴュ)てやつかな?  で、何?情報……?」
「ええ、そうなの。」
真里砂が急に真顔になってうなずきました。
「ねえあなたが10月7日まで科学者養成所(センター)に居たと言うのだったら……。ルディ・遠藤と言う人を知らないかしら?」
「ル・ルディの事かい!?」
三度目の正直で今度こそ鋭は飛び起きてしまいました。
体中、特に腕の傷がひどく痛んだ様子でうっと声をあげましたが、それにもかまわず、
「あいつのおかげで脱走できたんだ。あいつが、あいつは、  今ごろはもう……!!」
それだけで真里砂には察しがつきました。
 ああ、かわいそうなルディ……!
緑衣隊の手でどんな拷問を加えられていることか。今ごろはもう、きっと無事な姿ではいないでしょう。
真里砂はきりりと唇をかみしめました。
「……一刻も早く助け出さなくては……!」
その声に鋭がはっと顔をあげました。
ルディに教えられた逃げのびるためのただ一つの方法。
朝日ヶ森学園の数多い生徒の中で、山河を越え自由に森の中をさ迷い歩くことができるのは、不思議な力を持つその少女だけだと言う。
「それじゃ、もしや君が……」
あっけにとられているのを見て、真里砂はまたくすりと笑いました。
輝やかしい朝の森の光の中、心の奥底から突き上げてくる不思議な衝動で体中からいたずらっぽさが湧き上がるようです。
どこからくるのか得体の知れない、奇妙な歓喜したいようなかつて味わった事のない気分に、真里砂はもう一度高く声をたてて笑いました。
「そうよ、わたしがマーシャ、朝日ヶ森のマーシャよ。やっと気がついたのね!」
 「ルディから話を聞いて逃げて来たのだったら、あなたがこれからとりたがっている行動は察しがつくわ。それだけ元気があるのなら一人でいても大丈夫でしょう?戻って来るまでそこの岩影で待っていてね。お腹が空くようなら左手の洞(うろ)に乾した果物が入っているから。」
「待ってくれよ!君はどこへ行く気なんだ?」
「あら。ふふっ!密告しに行くとでも思ったの?! それならご安心なさいませ。山狩りが始まったら泉(ここ)はあまり安全な場所ではないもの、仲間に連絡をつけに行くだけよ。」
言いながら、真里砂はもう走り出していました。
「こういう荒っぽい仕事には、慣れているからご心配なく!」
 小川を飛び越え、樹間を走り続けながら、真里砂は自分の衝動が狼の遠駆けに似ていると感じました。
それにしてもわたしったら!
何がこんなにうれしく感じられるのかしら……?!
 
 
 
               .
 
    四、
 
 「……へえ!それで!?」
「だから見つからないようにひとまず森はずれのパパとママの別荘にかくまって、総監の許可をとりつけてからパパに連絡つけたのよ。ここ(朝日ヶ森学園)に直接つれて来ても良かったのだけれど、万ヶ一にでも緑衣隊に踏みこまれるような事があったら、これはもうまずかった、失敗でしたではすまされないものね。
で、戸籍身分証明履歴書その他転入手続きに必要な書類一切偽造して裏づけを準備して、後は折良く帰国してらしたパパとママに御協力願いましたわけ。」
真里砂は養父母である有澄(ありずみ)夫妻がある日沖縄滞在中の親友夫妻の死亡通知  無論彼女が偽造した  を受けとってから、身寄りもなくなるままに知己を頼って上京してきたその遺児を横浜港まで向えに行って朝日ヶ森のはずれのちっぽけな別荘に連れて来た(ことになっている)事のてん末をざっと話して聞かせました。
それからいたずらっぽく片目をつぶって、
「もちろんわたしはその事は全部、母親からの手紙で知ったのよ」。
相手の、一つ年上の幼ななじみ雄輝(ゆうき)も、そのあたりはちゃんと心得ていて、真っ白い歯でニッと笑い返します。
「そこまでで二十日。そこでお優しい我が母上様は両親を失ったばかりの傷心の清峰鋭殿を、心づくしの手料理で十日かかってお慰めもうしあげ、休暇のあける一週間前に愛娘ともう一人の親友の遺児翼(つばさ)雄輝がいる全寮生の学校に少年を連れて転入手続きにやって来る  。今日がその日よ。そろそろ呼び出しがかかる頃……あ、ほら来た。」
言葉通りそこへ下級生の一人がやって来て、大至急学長室へ来るようにと伝言を残して去って行きました。
さすがの真里砂も息をついで、汗をかいてもいない額を手の甲でぬぐいました。
「万事良し、計画終了。……これでどこのだれが出て来ようとも鋭と朝日ヶ森学園に手出しをする事は不可能になったわ。」
「確かな裏づけをもってここに入学している限り、朝日ヶ森の生徒を学園の意志に反してどうこうできる人間なんていやしないからな。肩の荷が降りたろ?」
「あっは、まあね。」
 なをも話している間に二人は学長室の前までやって来ました。
真里砂が先に立ってノッカーをたたき、
「……失礼します。翼雄輝、有澄真里砂両名参りました。」
扉を開けて一歩中に踏み込むと、真里砂が想像していた通り重いかし材の机をはさんで、上品な二人の婦人が談笑していました。
一人はこの朝日ヶ森学園学長。
推定年齢六十余歳、一見して英国のエリザベス一世を想起させる銀髪の老婦人。
もう一人は真里砂の養母で、32歳とはとても見えない少女のような容貌と華奢な体つきの児童文学作家有澄冴子(ありずみさえこ)。
かつてこの学園を現在の有澄建(たける)氏と共に主席で卒業した、朝日ヶ森の次期学長候補でもあり、言語学の大家として実に38ヶ国語を巧みに操って外交官である夫をささえているその聡明な美しさは、各国上流社交界からいつも多大な好意をもって迎えられていました。
有澄夫人のすばらしさといったら、本人でさえ分不相応と自覚する程におそろしく誇り高い真里砂自らが、人前で平然とマザー・コンプレックスを自称して恥じない程だったのです。
 この二人とはやや離れた所に、中型のトランクを一つ脇に置いて鋭が実に居心地悪そうに腰かけていました。
真里砂がやって来てよほどほっとしたのか、二人が初対面である事を忘れて声をかけて来そうにしたので、真里砂はそのすきを与えないよう慌てて巨大な学長机へ歩み寄らねばなりませんでした。
「ママお久しぶり、お変わりありません。学長教授難かご用ですか?」
真里砂が白々しくもにこやかに微笑(ほほえ)みますと学長も百戦錬磨の古強者らしく大いに楽しんで、口の端にニンマリとも形容できる表状を浮かべました。
「ええ用と言うほどの事でもありませんが、転入生を紹介しておこうと思ったのですよ。」
  ああ!」
真里砂は納得したというようにうなずき、独特の顔だちをした頭を斜めに傾けて、茶目っけたっぷりに、興味しんしんといった目つきを見知らぬ少年に投げかける  縁起をやってのけました。
「母から話はうかがっております。  彼がそうですの?」
学長はそうだと言うようにうなずき、かわりに有澄夫人が立って彼を紹介しました。
「清峰君こちらへいらっしゃいな。……娘と、あなたと同じように数年前に御両親を亡くされて、私たちが後見役をしている翼君。」
初めましてと真里砂が言った時の鋭の顔と言ったらありませんでした。
「真里砂ですよろしく。マーシャで良くてよ。手続きがもう済んでいるのだったら一緒に行きましょう。学内を案内するわ。」
「……あ、はあ……」
「僕は雄輝。荷物はこれだけ?」
「え!ええ。あの……そう……です……」
こうなるともう完全に真里砂は楽しんでいました。
「大人しくていらっしゃるのね。さあ行きましょうか。……それじゃお母さま、また後で。」
耳元で驚愕行進曲と運命を同時に最大音量で聞かされたか、さもなければ本場のインドカレーとお汁粉をいっぺんに口につっこまれたような顔をして歩き始めた鋭をはさんで、真里砂と雄輝はパチリとウィンクを交しました。
後ろで有澄夫人が懸命に笑いを押さえている事は気配でわかります。
扉を閉めた後も二人はわざと生真面目そうな顔をとりつくろって歩いて行き  校舎を出た所で、ついに大爆発を起こしました。

 
 

ここまでは、
・真里砂は何も知らずに、森の中で走り回っていた時、
 道に迷っていた鋭を見つけて有澄夫妻の別荘に送りとどけ、
・書類偽造等して鋭を朝日ヶ森につれて来たのは有澄夫妻。

 
 
 「まったくもって気に喰わないわあんの奴!」
真里砂が頭から湯気をたてんばかりに言うと、雄輝が額を押さえて笑いながら半ばあきれた口調で言いました。
「まったく大した奴だよあの鋭っての。おまえをつかまえて『女なんかくだらない』って言ってのけるんだからなァ…… このおまえをさ。」
「笑い事ではないわよ。ええい、もう!  あ〜あ!まったく頭に来る!」
 広大な国立公園に隣接する、これもまた迷い込んだら生きては出られない(おまけに所々原因不明に磁石が利かなくなるというごていねいな)大原生林・朝日ヶ森を、そっくりそのまま国から買い受けて敷地にしている世界的な名門私立校朝日ヶ森学園。
 
 
 
              (未完。)

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