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 冴子(さえこ)夫人は嵐の窓辺に立って森の荒れ狂う様をながめていました。
繰り返し聞こえる悲しい呼び声は、いくら幻聴だと自分に言い聞かせてみても激しく心をゆさぶります。
  助けて  。ママ   暗くて寒いよ。恐いよォ!」
 それは、遂に産声(うぶごえ)を聞かせてくれることのなかった冴子夫人の娘、真里子の救いを求め泣き叫ぶ声です。
結婚5年目に待ちに待った最初で最後の子供を流産し、二度と子供は持てないと宣告された時、夫人は半狂乱になって三日三晩泣き続けたものでした。
以来、朝に夕に真里子の泣き声が遠くから聞こえてきました。医者は、ショックによる精神衰弱から来る幻聴だと言い、勧められるままに森の奥深いこの小さな別荘へ療養に来てから1年が過ぎ、今、冴子夫人は辛い決心を固めようとしていました。
 ピカッと稲妻が走り、寸暇をおかずに雷鳴が地をゆるがし、また一陣の突風が窓ガラスに大粒の雨をたたきつけて来ます。
が、その一瞬、冴子夫人は確かになにか動くものを見ました。
彼女の方をふいとふり返って見た透(とおる)氏は、そのひきつった表情を見てぎくりとしました。
「どうした!? また発作なのか!」
  もう、治ったと思っていたのに……。
彼の言葉にはそんな悲痛な想いがこもっていました。
「いいえ、いいえ違うの。幻覚じゃないわ。あそこ……柵の所に、なにかがいるの」
「まさか、この嵐の中を出歩ける奴がいるものか」
 その時、ひときわ明るい雷が空全体を紫色に浮かびあがらせました。
「まちがいないわ、透。ほら!」
 
 
P8.
 
 とめる間もなく、冴子夫人は嵐の中へ飛びだして行きました。
「冴子!? おい冴子!!」
一足遅れて、透氏が追いかけてみると、柵の外に全身泥まみれになって小さな女の子が座っていました。
その傷だらけの姿を見て、透氏は冴子夫人が悲鳴をあげるのだろうと思いました。
が、冴子夫人も根はしっかりした心の強い女性です。
蒼ざめた顔できっと目を見開いてはいましたが、けっしてうろたえた真根はしませんでした。
「あなた、あなた! しっかりしなさいっ! 眠るんじゃないわよ!」
 冷えきった体でぼうぜんと空を見つめていた少女は、冴子夫人に頬をたたかれてはっと我に帰りました。
「アルテス! アルテス ダレマヌウク!」
  助けて。助けて、お母さん。
聞いたこともない言葉でしたが、言っていることは容易に理解できました。
少女は冴子夫人を自分の母親とまちがえて必死ですがりついてきたのです。
「スタクアラム ドル マリーク イマルスア?」
  どうしたらこの森から出られるの……
それだけ言って再び沈み込むようにくずおれた少女の瞳は恐怖でいっぱいになっていました。
 
 少女を暖かい家の中に運び込んだ時、透氏はまず夫人に服を替えてくるように言いましたが、彼女はがんとして聞き入れませんでした。
壁の中央に切り込みになっている古めかしい暖炉に、どんどん石炭をくべて部屋の中が暑くるしく感じられるほどになりました。
泥だらけの服を脱がされて、かわいた暖かい所に移された少女は、額も頬も燃えるように熱く、それでいて手足は冷えきったまま、少しもぬくもりが戻ってきません。
   もし、この子がこのまま死んでしまったら……。
 
 
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必死で少女の看病をしている冴子夫人を見て透氏はぞっとしました。
どこから来たとも知れないこの少女が、もし、このまま死んでしまうような事になったら、彼女は今度こそ本当に気が狂ってしまうのではないでしょうか。
 夫人自身もやはり同じことを考えていました。
少女が夫人にしがみついた時の顔が、夫人の心の中で、死んだ真里子の幻影と重なります。
生まれる前に死んでしまった娘、と、今ここで生死の境をさ迷っている見知らぬ少女と、面影が似ているというわけでは決してないのですが、どうしても、もう一人の自分の娘、さもなければ死んだ真里子の生まれ変わりのように思われてしかたがないのです。
 
               …………続…………
 
 
 
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