『 (無題) 』 (@中学か高校。)
2007年6月12日 連載(2周目・大地世界物語) コメント (2)業火。
美しかったルア・マルライン
「こっちだ、マ・リシャ!」
「はい、兄様(にいさま)!」
心を引き裂く程の苦しく辛い想いを、今、二人は考えてはならないのです。
駆け抜けて行く幾筋もの闇。火の手。
どこから現われるか知れない卑劣な地獄の群れ。
射かけられる火矢の一つ一つに対してさえも、互いにかばいあっている余裕はありません。
全神経を張りつめて走ってゆくさなかにあっては、涙で視界を乱す事、即ち死です。
幸いにも城のこちらの翼へは、まだあの悪鬼たちも入り込んでいないようでした。
二人が後にして来た皇の執政の間から、鈍い戦いの音がかすかに追いかけて来ます。
父母たる皇と女皇への強い愛情が、きりきりとちぎれんばかりに二人の眉をしめ上げ、唇からは細い糸のような血の筋が、涙の代りをつとめるかのように湧れ出してゆきました。
今はもう、聞こえる音といえばどこかで城が燃え落ちるゴウッという響きと、駆け続ける二人の足音と、荒い自分の息だけです。
マーライシャ皇女は必死で嗚咽をかみ殺しました。
皇統連綿たる女神マリアヌディアイムの直系、是が否でも生き残らねばならぬ皇位継承者であるという誇りと責任とだけが、この年若いというよりはあどけなさの多く残る幼い皇女を走り続けさせている全てでした。
回廊を一つ曲がると、そこはもう奥宮の西のはずれ。
自らつけた炎に照らされて、地獄鬼(ガラゴドム)どもの一隊が聞くもおぞましい下卑た喚声と共にちょうどその時攻めのぼって来ました。
建物の中の暗さが幸いして、まだ二人は見つかってはいません。
が、厩舎へ向う以上遅かれ早かれ真向からぶつからねばならない難関です。
皇子と皇女はほんの一瞬だけ立ち止まって互いに目を見交わし、それだけで全てを了解し、二振りの剣が同時にひき抜かれました。
もはや自分の二本の腕、二本の脚で、打って出るより他生きのびる道はないのです。
不意に皇女がのびあがって、兄皇子の頬に唇を触れました。
「どちらか一人だけでも」と皇女は言いました。
「必ず生きて逃げましょうね。」
兄皇子はすぐにその言わんとするところを悟り、思わず空いていた左手で妹を張りつけました。
剣において勝っているのは自分です。
足の速さにおいても、運の強さにおいても、生きのびる事のできる確率が高いのは妹皇女(ひめ)ではないのでしょう。
皇子はぎゅっと皇女を抱きしめました。
大地の国の明日のために、瀕死の深傷を負った父皇や全滅したに等しい軍を率いて最後を守ろうとしている母皇に、別れを告げて走って来る事はできても、妹皇女(ひめ)マーライシャを見殺しにする事だけは皇子マリシアルにはできませんでした。
正式の習練はまだ積んでいないとはいえ、生まれつき『見はるかす眼』と心話の術(すべ)とを身につけている兄妹にとって、相手の悲しみは過敏にすぎる程の鋭さをともなって互いの心につきささります。
皇子の皇女に対する愛が、単に妹を思う兄のそれからはるかにかけ離れている事は、とうの昔から二人ともが認識している事実でした。
マーライシャ皇女
こんなにも近く頬と頬とが触れているような時には、二つの心が近くにいる段階を通り越して、まるで一つの魂に二つの心が迷い混んでしまったようです。
縛(いまし)めをひきちぎらんばかりにして叫んでいる半馬神の激流が兄の心なのか自分の姿なのかを見誤らないために、マ・リシャは全ての心を閉じ、渦巻きだそうとする淡い夢を押えつけて、深い沼の底の歩んで来た年月と共に降り積むった泥層深くにまで打ち込まれた、呪縛にさえ似た楔を見つめ続けました。
マ・リシャの心をつなぎとめているものに気づいて、皇子の心に雷撃にあったようなふるえが走り、それからぱったりと静かになりました。
マ・リシャが顔を上げると、攻めのぼって来る地獄鬼どもの足音が先程よりはかなり近くに響いています。
「マーライシャを……」言ってマ・リシャは口ごもりました。
「ダレムアス皇女“マルラインの若葉”マーライシャを、ガルゴドム達は殺さないわ。
ここで捕えられて地獄の帝王(ボルドゴルム)の後宮に放りこまれるのも、生きのびていつか西の皇のもとへ嫁(ゆ)くのも、わたし個人
「ダレムアスの皇女は、母なる大地の災いとなる事を望みません。」
マ・リシャは一瞬、細い首をきっぱりと持たげ、それからまた目を伏せました。
「
皇子には答えられない質問でした。
マ・リシャは大きく息を吐き出しました。
「だから万ヶ一敵の手に陥ちるようならば、わたしは潔く舌を噛むわ。 兄さまは必ずかたきをとってくれるわね?絶対に。」
無言のままマリシアルはうなづきました。
「マ・リシャ……」
「え、なあに兄さま」
マ・リシャが顔をあげると、城の焼け落ちる炎に照り映えて、兄の頬に流れるものが光っています。
マリシアルは目を閉じ、顔を上に向けたまま、声のふるえを隠そうともせずに言いました。
「わたしのかわいそうなマ・リシャ。……生きるね? 西との婚儀はきっとわたしが何とかする。この先どんな辛い事があろうとおまえを守ってやる。だから生きるんだ。いいね!?」
「兄さま」
マ・リシャはゆっくり答えました。
「わたしは女神の直系、大地の皇女。お父さまとお母さまの娘です。誓って逃げたりはいたしません。」
マリシアルの黒い太陽のような瞳が、真っ直ぐにマ・リシャの瞳を射抜きます。
正統なる女神の子孫であり、母の娘であることの誇りをかけて、マ・リシャはその視線を受けとめました。
「父の息子であることにかけて言っているんだぞ。」
「母の娘であることにかけて答えていてよ。」
マ・リシャは両腕を交差させて胸の上に置き、肩をつかんでいる兄の腕に手の平を重ねました。
「大好きよ兄さま。大地の上のだれよりも。」
二人は再び走り始めました。
遂に皇女皇のいた執政の間すらも陥ちてしまったのでしょうか、城の中心をついて天高く火の手が上がるのを二人は見ました。
思わず濡れそうになった悲鳴をふせぐために、噛みしめられた左の指から、紅い涙のような血が流れだします。
皇子と皇女を探せ!という声が、口々に叫ばれ始めました。
幼ない頃から毎日かくれんぼをしてきた宮殿内です。
植え込みの中の秘密の通路を通り抜け、渡殿の下に秘み、中庭から中庭へと流れる小川に身をしずめて、二人はじりじりと厩舎に近ずいて行きました。
全ての地獄鬼が二人を探そうとくり出して来ている今、もはや二振りの剣のみで切り抜ける事は不可能です。
明る過ぎる炎がより一層闇の暗さを濃く見せていたという事実がなければ、二人は半時間と無事にいる事はできなかったでしょう。
(※「コクヨ ケ−10 20×20」原稿用紙、シャーペン書き。)