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 大地の国(ダレムアス)物語・「皇女・緑の炎」
 第一部 地球  森の少女

 
 どうどうとたけぶ荒れ狂う嵐の森の中を、少女は必死で逃げていました。
雷(いかづち)が天をさき、風が木をひき倒し、大つぶの雨は横なぐりにたたきつけて、闇の中、一寸先も見ることはできません。
枝の先や鋭い下草が、少女の手足を刺し、衣服をとらえてひきちぎります。
冷たい雨に打たれて、少女はすでに感覚を失っていました。
あるのはただ恐怖と、少しでも遠くへ逃げなければというあせりだけです。
追手があるのか、ないのか、どちらへ行けばこの樹海から抜け出ることができるのか。今の少女にはそんなことは何もわかりません。恐怖に耐えるにはあまりに幼なすぎて、無我夢中で遠くへ、遠くへと走って行く以外、他に何ができましたろう。たでしょう。
   安全な所へ
 足を踏みはずしたその一瞬、自分をかばうために後に残った、おそらくはもう殺されてしまったろうトルザン卿の、最後の声が頭に響きました。
「お逃げなさい。少しでも遠くへ。安全な所へ。そして身を隠すのです。
 けっして御身分をあかしてはなりませんぞ。けっして
けっして けっして けっして ....
がんがんと割れるような頭の中に最後まで残っていたのはそれだけでした。
濁流に足下を大きくえぐり取られていた崖のふちは、少女の重みに耐えかねて、ぐらりとばかりに傾くと、少女を乗せたまま数メートル下の激しい流れの中に落ちて行きます。
遠のいてゆく意識の中で、少女は渦巻く水面(みなも)に見えかくれする黒くなめらかな腕が、稲光りの中にぼうっと浮かびあがるのを見たような気がしました。
腕の主たちはとても美しく、猛々しくて、かみつき、ひきさき、踏みにじって、およそ思いつく限りの乱暴をしながらも、なぜか少女にだけはその荒々しい手を出そうとはしませんでした………。

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 次に気づいた時、少女は川の中州にうちあげられていました。
嵐はいっこうにおとろえる気配を見せず、川の水位はどんどん上がってきます。
このままここにいれば、再びこの濁流に飲み込まれてしまうでしょう。
そうなったらおしまいです。
少女の体は冷えきっていて、これ以上川の中にいて、生きのびられるだけの体力は残っていないのです。
少女にはそれがわかりました。
それでもいいような気もしました。
全ての望みを失ってしまったように思える今、幼ない少女にとって死ぬということはそれほど怖しい意味を持たなかったのです。
 少女の心の中に、死人(しびと)の霊魂(たましい)を冥界へ運ぶ者たちの誘う声が響きました。
   おいで。おいで。少し体をずらして、川の流れに身をまかせるのだ。
   おまえの肉体(からだ)は川がいいようにしてくれるよ。海へ運んでゆくよ。
「海へ?」 少女はなんとか体を持ち上げて尋ねました。

   そうさ、この世界では人間の肉体(からだ)は海から生まれ、海へ還ってゆくのだ。この丸い地の国(ティカース)ではな。
「……ここは大地の国(ダレムアス)ではないのね……」
   そうだ。ここはおまえの故郷からは遠くはなれているよ。
「大地の国(ダレムアス)へ帰りたい。お母さまの所へ帰らせて。」
“声”たちはしばらく答えませんでした。そのうちに一つの“声”が言いました。
   残念だがそれはできない。……わしらにその力は与えられていないのだ。わしらにできるのはおまえを冥界へつれてゆくことだけなのだ。
「そこにはなにがあるの。」

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   なにもない。冥界にいるのは魂(たましい)の司(つかさ)たちと、たくさんの眠っているたましいだけだよ。
 “声”の語る言葉を夢現(ゆめうつつ)に聞きながら、少女は川の中へ体を入れました。冷たい水がすぐに少女の心を肉体からひきはなします。
   そうだ。それがいい。おまえの背負った運命(さだめ)はおまえには重すぎる。別の世界へ行った方が良いのだ。 さあ、もう足下に道が見えるだろう。真直ぐ行くのだよ。
言われた通りに少女は歩きはじめました。
気がつくとすぐ隣になにか明るいものを掲げた人がいます。
それが少女を導く“声”の主(ぬし)でした。
暗くて悲しい闇の中の道にぽつんぽつんと同じようなかすかな明かりが動いてゆきます。
すぐ前にいるのはトルザン卿なのでしょうか?
それは自分自身を送る死者たちの葬列でした。
「これからどうするの?」
   なにも。冥界では人はなにもしないのだ。ただ、眠って自分の過ごしてきた一生の夢を見る。
   夢が終った時、また別の世界へ、新しい人生に向って船出する……。
   おまえの次の人生が今より楽なものであることを祈っているぞ。
   ……ほら、あそこじゃ。
前の方に死者と生者を隔てる大いなる扉がありました。
いかなる賢者、魔法使いといえど、生きてあの扉の内に入ることはかないません。
「あれは……?」
少女は扉のわきを通ってはるかにのびていくもう一本の道を指して尋ねましたが、答えを得ることはできませんでした。
扉が音もなく開かれました。
   ここへ入れば、今までのことはすべて忘れられる。眠って心の傷をいやすがいい。
 
 
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少女が恐るおそる扉の内へ踏み込むと、とたんになんとも言いようのない安らかな眠気があたりを覆います。
少女がその中に自分を委ねようとした、その一瞬。    扉の外から一本の腕がのびて、ぐい、と少女を引き戻しました。
扉の外のもう一本の道から、不意に現われた影があったのです。
「無礼者はなしてっ
突然の事にかっとなって少女が叫びました。
いまだかつて手荒な扱いを受けたことのない高貴な生まれの者に対して、なんというまねをするのでしょう。
心地(ここち)良い眠りから引き戻された怒りと相まって、激怒している少女の頬に、ばしり と 平手打ちが飛びました。
「お目をお覚ましなさい!」
厳しい口調にはっとして顔をあげると、そこには、少女の故郷の衣服をつけた女戦士の姿がありました。
どこかで見たことのある女性です。
そしてその人は生きていました。
少女を追って、生きたまま、世界の外へやってきていたのです。
「おまえは……」
女戦士は片ひざをついて少女の手をとりました。
「皇女…」
深いまなざしがまっすぐ少女にそそがれているので、おのずから視線をかえさずにはいられません。
いつのまにか、少女は女戦士に対する怒りを忘れていました。
「皇女。あなたにはまだ、この扉を越えることの意味がわかっておられないのです。この扉の内側に入った時、人は全ての記憶を失ってしまわれるうのですよ。」
信念を持って話しているのは確かでしたが、なぜかひどくつらそうな顔をしていました。
「今現在あなたがその事をどう思われようと、あなたは皇の御息女としてお生まれになられました。そしてそれは過去の幾多の人生の中
 
 
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の行動を通して、あなた御自身がお選びになられた事なのです。
行末の困難が案じられるからといって、今になってそれからお逃げになるのですか? あなただけの事ならばともかく、皇女は国の存亡の鍵を握る方なのです。あなたがいなくなれば、大地の国人(ダレムアト)たちはどうなるのです。……皇女、幼ないあなたに対してむごいことだとは思います。思いますがどうか、どうかお戻りになられますよう…………。」
戦士が言葉を切った時、冥界への導びき手が吼えるように叫びました。
    ならん。ならんぞ。いかな不死人(ふしびと)のおまえでも、一度(ひとたび)扉の内に足を踏み入れた者を連れ帰ることはできぬ。来るのが遅かったのじゃ。その娘は既に冥界の人間ぞ
「わたしが連れ帰るのではない。御自分の意志で帰られるのだ」
戦士はきっとなって言い返しました。
「皇女にはそれだけの“力”がある!」
    力があってもそんなことはせぬ。おまえたちがこの娘に負わせた運命は重すぎるぞ。好き好んで身にあまる重荷を背負おうとするものがどこにいる。
戦士はうなだれて、言い返す言葉を持たぬようでした。
    これで決まりだな。……さ、こちらへおいで。おまえはもっと自分にふさわしい人生を歩むべきだ。
少女はなおも扉に目をうばわれながら必死で後ろへさがりました。
あの安らかな眠りの中に入りたくて入りたくて泣きたいくらいです。
でも、でも……。
「辛い所より楽しい所に行きたいと思うのは逃げることになるのね」
    逃げることは罪ではない。おまえにはそうする権利があるのだ。
少女は懸命にかぶりをふりました。
だめだめ
涙があふれて扉の姿がぼやけました。
「わたしは皇女なの。皇の娘はどんなことがあっても逃げてはいけないって、
 
 
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お母さまに言われたの……」
「皇女!」
戦士は叫び、導びき手は低くうなって扉を閉じました。
「行きます! 帰ります! つれて行って下さい! ……もう、もう道がわかりません!」
少女はそのまま泣きくずれてしまいました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(☆大学ノートにシャーペン書き。翌頁に鉛筆と色鉛筆で、多彩な闇黒の中に聳える「扉」と宝珠のついた「杖」を掲げる「導びき手」と、幼い少女と、ひざまずいて少女の手をとる女戦士(黒百合)の「挿し絵」あり。……たぶんに山田ミネコの影響が散見される……☆(^◇^;)☆”)

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