なにかにせかれ追われるように国を出た。日本という場所には 在りたくない気が彼はしたのだ。
 さいわい、食ってくための技術には自信があった。
 写真だ。
 ひとびとの倦み疲れた表情を追い、ねじれた森を探り、裂けた魚や斃(たお)れゆく獣たちの慟哭を伝えつづけるうちに、
 いつしか、彼は、戦場にたっていた。
 
   砂漠だ。
 一面の、荒れた すなはら……
 
 かつて、けれどさして遠いことでなく、ここにも木草は茂っていたのだという。
 いま視界にはいるのは、どこまでも点々と散るほそく小さな生き物の白骸と、ちかくに倒れた数人の、血。
 膝から下がずたずたに裂けた自分の脚を見おろして、座りこんだ彼は、茫然としていた。
 止血が してある。だれも、生きて残っては いないというのに。
 かたわらで彼を護るように横たわって死んでいるのは、この戦地へ来て雇ったばかりのまだ若い助手。
 彼、日本人、ISOHARAの写真集に、何年も前に生き別れた家族の無事な姿を見たのだと、出会った時に静かに語った。
 それは、彼が身内の恩人であるかのように、若者に錯覚させたのだろうか……
 腹部の深い裂傷は、だが絶息するまでに いくらか時間がかかっただろう。
 爆風でとばされたすこし離れたところから、這い、にじって 彼の安否をたしかめに来たあとが 沙になかば 吸われた血痕となって つづいていた。
 びょう、と、旋風が吹く。
 もはや遺体となった連れたちに葬悼の白いすなが降る。
 ジープは爆発転倒して、なお炎をあげていた。
 そうだ。
 地雷かなにかを踏んだのだ。
 見かえれば、後にしてきた前線の駐留基地は はるか地平に没し、水も食糧もなかまとともに失っていた。
 そして、足が動かない。
 ただカメラだけが彼の胸に無意識にかばわれて、まったくの無傷で有った。
   撮る、か。
 苦笑して、彼は手をのばし、一歩をいざった。
 すこし動いてからふりかえり、勇敢で無謀だった仲間たちの末路と、ぼろになった自分の足とを、苦心してアングルにとらえる。
 フィルムの殘数を確かめて再びいざりはじめた。
 もうそれほど離れてはいないはずだったのだ、目的地は。
 危険だという強硬な反対を押し切って出てきた以上、捜索や救援部隊は望めまい。おなじこの荒沙のさなかで朽ち骨をさらすなら、せめて、最後まで意地を通したかった  撮るのだ。
 傾きはじめた巨大な太陽の方角を、彼は目指した。
 この条件では自分は三日ももつまい。けれど、5年、10年たって、この不毛で醜悪な戦争にもいつか終りが来るとき、誰かが忘れられた写真を発見してくれれば、それでよい……もっとも、この過酷な環境下でフィルムがそれまで保てば、の話だが。
 
 いざりはじめて次の日の夕刻、すでに伝説となった最後のオアシスが、濃い朱色のなか、黒い影となって前方に浮かびあがった。
 水の場(オアシス)。
 このあたり一帯のそれが、もう幾年も前に化学物質が大量に流布されて以来、草原のなか生きものの集う宝玉ではありえず、ただ白い沙原のそこかしこに点々と散る濁った銅色の鏡、あるいはもっとも少額の、クズ同然のはしたの価幣にしか、例えられなくなって、久しい。
 そして、植物のまもりを失った泉のほうもまた、年々その力を衰えさせ、餓えた虚空に吸い上げられてゆく運命にあるらしい。
 そうした厳しい現実を 彼もほかの取材屋たちも危険な戦場めぐりのうちに目のあたりにしてきた。それが、どういう風向き加減でか、たったひとつ薬品の害から免がれえた泉地があるという。
 難民たちからの定かではない情報に、飛びつくようにあわただしく出発してきたのは、ひとつには“彼らを保護する”名目でこの地のいさかいに介入してきた大国の駐留基地で、奴隷同然に浅黒い美しい肌の人々を扱うそのやり方を、これ以上は見ていたくなかった、というのがあるかも知れない。
 
 日が没し、彼は うめいた。
 すでに死期は近く、眼はふさがり、のどはひあがり、意識は朦朧としている。
 だが、死よりも悪い光景というのはあるものだ。
 彼の目指してきた聖地は枯れていた。
 昇りそめた月が彼の影をながく前方に投げかける。その先に、葉をおとし黒ずんで枯死した、ひとむれの樹々。
 では、最後まで、残っていた、というのは本当だったのだ。
 そしてそれすらも力尽きたということだ。
 
   神よ
 
 渇いて動きはせぬ舌で彼は つぶやいた。
 
   これが、人間の したことか ……
 
 這い、たどってきた道程のせいで傷つき、よくは動かない指で、かすむ目をまばたきながら 静かにシャッターを押した。
 彼は、なおも、這った。
 生きるものが水を必要とするように、水とても植物の護りを必要とする。ここに至る水脈のすべてが滅びつつあるというのに、たとえ人の造った愚かな兵器の害は直接には避けられたとしても、たったひとつの泉だけが、淋しく 永らえていられるものではない。
 小さな けものたちの 骸(むくろ)が ふえていた。
 逃げこんで、二度とこの地から出ることもかなわずに、餓えてじわじわと 殺されていったのだろうか。
 ときおり、とどまっては、フィルムにおさめながら、もはやよける力とてない彼は、もろく砕ける骨をのりこえて、泉の奥をめざした。
 泥が、ひろく、溜まっていた。
 枯れてかたむいた木立ちの輪のなかで、すでになかば表面は干涸らびて、無数の亀裂をはしらせている。
 ごくわずかに残された底のほうの水面も、風や水とともに流れこんだ薬品に汚染された徴の、奇妙な緑色にゆらめいて月光を拒絶していた。
 一枚、一枚、命数とひきかえにアングルを決めてゆく。
 ついにフィルムが尽き、彼は、ほとんど動かなくなった腕で長い時間をかけて湖底の泥をかきだし、小さな山と横穴とを築いてカメラとフィルムケースをおさめた。
 ふと、のこしてきた日本へあてて遺書というものを書こうとも思ったが、やめた。
 真実をとらえたものが いつか 人の手に渡るのなら、十分、その役を果たしてくれるだろう……
 小さな塚山により添うかたちで横たわり、彼はとうとう深い眠りにつこうとしていた。
 ひと息ごとにからだからなにかが流れてゆくのがわかる。
 つぎの夜明けの冷気をは、耐える力はもはやないだろう。
 抱いた築山がまるで女性の子宮のようだと静かに微笑して、目を、閉じた。
 欠けはじめの月が宙天をはしりやがて傾いてゆく。
 現し身から抜け出しかけた魂は そして不思議な光景を 砂漠のうえに 視た。
 
 
 
 
 
 

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