一、翠林(すいりん)

 そもそも杜(もり)こそが聖域で、王宮など初めはそれを護る外壁にすぎなかったと伝える。
 数百年を経た華蘭樹の枝々(えだえだ)は広大な中庭いっぱいを埋めつくし張り交わし、初夏のころ、新緑と呼ぶには日ごとに色濃くきらめく大きな葉を繁らせて、梢(こずえ)もまぢかい樹上の高みは視界のきかない自然(じねん)の迷宮だ。
 「これぞまさしく碧天(へきてん)の神の御加護だぜ」
 敵前逃亡に成功したばかりの少年はちょろりと舌をだしてなむなむと形ばかりの不謹慎な礼拝(らいはい)をする。
 手ごろな枝のつけねにどっかとまたがり懐中に手をつっこめば、とりあえずくすねてきた木の実や菓子の類が、出てくるでてくる。
 昼食というには気の早い時間帯だが今日はなにしろ朝から忙しかった。
 弓だの剣だの馬術だの、いつにも増してしごかれたうえに午後の日課の語学の授業まで午前中日の出前の予定に詰め込まされたのだ。
 「今からこんなんで俺の人生どうなるんだ……?」
 嘆息しながら暮らすにはまだ若すぎる早すぎる未熟すぎる未(ま)だ熟(わか)すぎる十四歳。脳裏に浮かぶのは糧食確保に忍び入った宴(うたげ)の間で準備に余念のない女官たちの、甘い香りと柔らかな声、まるみを帯びた体の線。
 「夏だもんなぁ」
 めっきり薄着になってしまうから心の臓に悪いのだ。手にした桃香果にみょうな思い入れをしそうになり慌ててかぶりつく。
 城中一(いち)と噂にたかい年上の美女の匂いやかなたおやかな胸。
 去年の夏には気づきもしなかった赤い口唇のなまめかしさに胸騒ぎのする心の騒ぐ今年になって、ふりかかった境遇は災厄と言っていい。
 できすぎた親をもつと子供たちが割(わり)をくうのだ。
 「……けど、協力するって、最初に言っちまったしぃ。……」
 「なにを一人でぶつぶつ言ってるんです」
 と、ここで従兄を登場させると枚数が増えるわね。 

 腹がくちくなれば苛立ちもすこしはおさまる。
 このまま城外へ抜け出してすっぽかしを敢行してしまおうしようか、それとも大人しく戻ってシキタリとやらを甘受するべきか。
 律気な長男気質(かたぎ)に生まれついたのが運のツキだとばかりに深い吐息がまたもれる。
 生まれついての長男気質(かたぎ)がすべての不運の源(みなもと)だ。
 ずっしりと肩に重みを感じて深い吐息がまたもれる。
 と、その時。
 ぎゃぁぁぁーーーーーーっっ!!
 うららかな夏の午前の陽ざしを刺し子雑布(ゾーキン)をちぎるようながごときおたけび悲鳴がさえぎった。
 「ひっ姫さまっ、お止(や)め下さいアブアブ危ない〜〜っっ」
 侍従らしい老爺(ろうや)のおたけびに何事かと葉むらをかきわけてみれば身をのりだせば。
 白と黄金(きん)のかたまりが瑠璃(るり)ひといろの天から降(ふ)ってくる。
 それが、《邂逅(かいこう)の宴(えん)》のために正装束で着飾らされた少女だ、と理解するのに一瞬の間(ま)があった。
 貴賓室(きひんしつ)のある塔の窓から木立ちのはずれの張りだした大枝めがけ、成人でも足がすくむ七ウァルの常人なら足がすくみ目をまわす高みから高さを思い切りよく飛びおりたものらしい。
 宙空でくるりと体をまるめてまるまり一回転、つまさきから樹上におりたつ。そのまま重みでしなる足場はかなり不安定で、すべった、と見えるのは意図してのようだった。
 すとんと枝にかけた膝を支点に背面へ倒れこんで落下の速度をねじまげる。
 上体のふれた反動のままにでかなり離れたとなりの梢(こずえ)に飛びうつってきた連続技は見事というしかないほとんど猿(さる)というしかない。
 ほとんど猿だな、あれは」
 惜しむらくは把んだその枝それが細すぎた、ということで。
 ばきっ
 ーーーーーーーーっっ?!
 「きゃあ!」
 叫んだのは、見ず知らずの少年に抱きとめられて驚いたせいだった。
 「慮外者(りょがいもの)、放(はな)しや!」
 「おっ……と」
 かんだかい童女の声には王者の気迫がある。
 真っ赤になって暴れる子供を腕にかかえて枝上をわたる人間少年の平衡感覚も、なまなかなまじな鍛錬で手にはいるものではなかった。
 ゆさゆさと揺れる中天の緑の小径(こみち)を一陣の風がふきぬける。【女神の手のかたち】と称される金碧(こんぺき)の葉が陽光の波に踊る。
 足の下のはるかな海底でちらつくそれが地表にとどいた木漏れ日の紋様だと気づいて、ようやく救けられたのだと事実にようやく納得したらしい。静かになったのを幹にほど近い大枝に腰かけさせて少年未熟な戦士守護者は内心の冷や汗をぬぐった。
 歳月を経た華蘭樹の梢ちかくは見かけよりも折れやすい。のだ。それが他国の刺客ら間諜などを除(しり)ぞけると同時に、こうして子どもらだけの逃走経路となっている。
 同時に二人の体重というのはかなり危険なカケでもあったのだ。

 
 「御無事でなによりだ、姫君」
 「礼はいおうぞ。したが、あれしき」
 無用な手出しじゃと、まだ紅みのさす頬のそっぽを向けて、言う。
 たしかにあの身のこなしなら多少の危難は自力で解決できたにちがいない。が、考える前にからだが動いてしまったのだから、しかたがないではないか?
 「それは、すまなかった」
 苦笑をこらえた少年はにっこり笑って口ではすなおに謝まり頭まで下げてみせる。
 大人ぶった相手の対応に、今のはやはり自分のものいいが礼儀からはずれていた行儀知らずだったと自覚したのか。
 むっ、と困った顔で朱唇をへの字にまげる。
 歳のころなら十一、二歳か。
 幼なさには似合わぬ豪奢な装束の白絹がみるも無惨にもののみごとにあちこち鉤裂けていた。
 きちきちに結われていた黒髪も荒技のせいで髷(まげ)が乱れて、小さな手が苛立たしげに留めの飾り具をひき抜く。
 その落ちかかる漆黒の滝にかこまれた額(ひたい)は雪のように淡く、光を放つ双瞳は、翡翠(ひすい)をおもわせる碧緑(へきりょく)。
 このあたりではごく普通の黄楊(つげ)色の肌に焦茶の眼をした少年とは、顔だちの彫りの深さからして異なる。
 「失礼だが、西の方(かた)か」
 尋ねると小さい媛(ひめ)はまったいらな胸をはって社交用の笑顔を浮かべた。
 きかん気とはいえ、躾(しつけ)はなかなかよろしい。
 「わらわは星華蘭(セイカラン)じゃ」
 少年は、すなおにおどろいた。
 先代の王が跡継ぎをのこさずに亡くなり、《碧天(フェンテル)国の七家》の互選によって新しく航(コウ)家の三男が才腕を買われて位(くらい)に就いたのがつい最近のこと。
 星(セイ)家といえば新興の王族などよりよほどの由緒を誇り、むろん至高司政者の椅子も青い血の一族にまわるもどるものと思われていた。詩人肌の当主が最後まで固辞しつづけたのでこのたびの政権委譲禅譲(ぜんじょう)とはあいなったが。
 その、星家の長姫(おさひめ)の名を聖なる国樹からつけたとは、ひとづてに聞いたことがある。
 「つまりは見合いの席から逃げだしておいでだと」
 苦笑の呆れた顔にもなろうというものだ。姫たち乙女たち娘たち姫たちの中でも別格の、王太子妃の第一候補である。
 「わらわは学びの齢(とし)にもあいならぬのじゃ
 決めつける声音(こわね)は拗(す)ねるというより義憤に近かった。
 「かなわぬ。なんぞ見も知らぬ者と婚儀を約されては」
 ☆(説明文)☆
 それは王子のほうとて同じ、とは、少年……名を海空(かいくう)という……は、云わない。
 「しかし慣習(しきたり)だからな」
 と、したり顔の年長者をぎりと睨(ね)めつける、童女のほそい腹の虫が、ぐうと鳴った。
 肌の薄さにみるまに血がのぼる。
 「いまだ朝餉(あさげ)もまだなのじゃ。おとなしゅう仕度をさせねば駄目じゃと言うて乳母どもが……朝餉ももたぬ」
 「兵糧ぜめとはたしかに卑怯だな」
 魔法のように懐中からあらわれた甘菓子に礼もそこそこにかぶりつく。幼なすぎる貴婦人の仕草に、苦笑がもれた。
 華蘭樹の名をもつ幼姫は空腹をみたす一方で空海の風体を判(み)ている。
 「そなたもしや、王子がたの御学友か」
 はじめは端下の者ぞと思うたが、と続く言葉に、たしかに今日の剣術では三度も地面に倒されたと、湯浴みに行く道すがらで抜けだしてきたおのれのけいこ着姿を見おろす。
 「たしかに、今年の春に学舎に入ったが」

 「王妃になるのは、おいやか」
 「妃(みめ)にはならぬ。所望は将軍ぞ」
 「武芸がお得意か」
 「母上は、お好きでないのじゃ」




軍籍 


西高天(さいこうてん)/西高原(さいこうげん)

航 海空(こう・かいくう)
  潮可(こう・ちょうか)
  流華(こう・りゅうか)

 

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