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 旧街道に沿って発達した問町(といまち)商店街のはずれに位置する市立五小の職員室で、ここ数年来「いつもの四人組」と言えば、高橋博文(ひろふみ)と七木千(しちき・せん)、横川勇二に出来良 了 (できら・りょう)からなる、幼なじみの一団で。

 学年ごとの行事はもとより大仕掛けなイタズラ騒ぎのたぐいの時には必ずいつも真ん中にいて、盛り上げついでに行きすぎないよう仕切り役をも果たしてしまうという、たいそう大人うけの良い名物連である。

 その子供達がこの春先に、そっくりそのまま二中に進学し。

 そろって同じ三組やぃと喜んだのも早々に、いつのまにやら五人に増えて、朝な夕なに連れだって歩く姿がひとの耳目に慣れたのは、入学式から十日ほど、卯月も半ばの頃だった。
 
 「磯原君(いそはらぁさ)、今日(えい)なカスミ月原(つくばる)な廻(むあ)って帰らぁし?」

 神経の細いらしい転校生がきょうは誘って貰えないのかと不安げな顔になる前にと、HRが終わると同時にまっさきに呼びに来るのはたいがい面倒見のよい博文である。

 清がはじめのうちは一人で通っていた公道沿いは遠まわりのうえに、車が多くて喘息持ちには決して良くないと、最初に気がついて声をかけたのも、彼の功績で。

 地元の野者(のもん)でさえ時々は迷うという網の目のような善野の小路や細道を、あちなこう、こちなこうやぃと教えては、毎日いろいろな場所を散策しながら戻るのが、新入生の所属クラブが決まるまでの短いあいだ、彼らの日課になった。

 この四人組、なぜか一人っ子と末っ子ばかりであったので、二回りもからだの小さい異邦人にあれこれ世話を焼いてみせるのが、弟ができたみたいで嬉しかったのである。

 本当なら中学二年になっているはずの実は一歳年長だとは、落第坊主もなかなか白状できないでいた。
 
 
 「……今日(えい)ちょっと体調よくないシ」

 はやくも伝染しはじめた怪しげな善野なまりで、清が困って応じると、

 「そんなの(なぁが)知ってやぃ。カスミ月原な、内緒ぅ近道なや」

 ヘヘンと笑って清のカバンを持ち上げると、勘のよいマイペースな千(せん)がさっさと先頭を切った。

 〈内緒ぅ近道〉とて彼らが言う場合、多くは他人さまの庭先の無断通行だと、案内される側が理解したのは数日まえである。

 「……まぁた生け垣とか、よじ登ったりするのぉっ?」

 感情が動くとすぐに戻ってしまうカン高い横浜なまりの語尾を、テレビ言葉なやぃ」と呼んで何だかおかしそうな顔をする四人は、
 
 「今日(えい)はでぇやい」、つまり「やらない」と請け合って、ずんずん歩いて行った。
 
 
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 わさりわさりと厚く積もった去年の朽ち葉を踏み散らす。今日の通路は梢の風に金緑の萌芽がひるがえる、雑木林の踏みわけ道だった。

 「雑木なでぃ、母な木(ぼなぎ)な呼びやらぁー」

 ひと抱えもある銀灰色の幹がすっくり並んでいたかと思うと、その向こうには折れそうに細い彦ばえに、のしかかるような大枝の夕焼け色のゴツゴツした樹皮の松がある。

 清には樹木の種類はあまり見分けがつかないが、地元民の得々とした蘊蓄(うんちく)に耳を傾けてみれば春の蝶から夏のセミ、秋にはアケビやキノコも穫れる、とても豊かな土地らしい。
 
 住宅街から少し離れた深い木立ちの日溜まりに、いくらかの苔に覆われて素朴な句碑が配されていた。
 
 
     はるやよい
     かすみつくばる ごぼうやま

 
 
 〈カスミ月原(つくばる)〉というのは地図にある正式な名前でなし、そこを遊び場にする代々の子供たちによる縄張りわけの通称である。
 
 わさび田のあるカスミ沢、山頂ちかくの月神社(つっかんみや)、原山(ばるやま)さんちの牧草地。

 この三箇所をまとめて呼ぶからこの名になったというのが博文の講釈だったが、湿気が多い土地なので上に霞がかかる(つくばる)からだと大人達は説明していると、雑学家の千がすかさず混ぜ返す。

 そもそもが、呼び名と句碑とはどっちが先に出来たのか?

 それを言うなら句碑に書かれた「はるやよい」は標準語(?)の「春は(や)良い」なのか、「春・弥生」か。それとも善野の方言で、
 
 「夏(はる)だ(や)なぁ(よぃ)」という意味なのか……?
 
 どう思うかと不意に意見を聞かれた清は、

 「うーん……、ワカンナイ」と、苦笑してごまかした。

 判らなかったのは議論の是非でなく、早口な善野弁のほうなのでは、あったが。

 登記上の区分で言うなら善野市街の南東部を占める〈五芒山〉(ごぼうさん)の、東麓斜面の一帯。

 なるほどそこを突っ切れば南麓の谷地水(やちみぞ)あたりの磯原家の新居まで、最短距離の近道である。
 
 
 (ちなみにゴボウ山という音を聞いてしばらくの間、清はそこでは根菜の牛蒡(ごぼう)が採れるのだとばかり、てっきり思いこんでいたものだ。正しくは、神社を祀った山頂を中心に、上から見ると五筋の低い尾根が星の形に広がっている所から、この名があるらしい。)
 
 

 「晴(はる)な続かんでら、沼(ぬま)らって通(たぁ)らでやぃ」
 
 善野の子供相撲の連勝横綱だという出来良(できら)はふっくらした指をまるめて足元を指さした。

 日陰の沢地は雪解けが遅いので、春も深まるまでは湿気が残って足場が悪いのだ。

 教えられて靴の先でかきまわして見ると、なるほど乾いた落ち葉が占めるのは、ほんの地表の数センチばかり、そのまた下にはしくしくと水気を含んで黒錆びた、重たげな腐葉土層が積み重なっている。

 ここで転ぶと実に悲惨な汚れかたをするんだと、自宅からは反対方向になる“近道”に喜々としてつきあっているノリのよい勇二は、自分の失敗談を身ぶり手振りで熱演し、清を爆笑させた。

 油を含んだ朽ち葉の底はなかば泥炭と化していて、肌に染みたら容易なことでは色も臭いも落ちないものらしい。

 たいして昇って来たとも思っていなかったが、林を抜けると一望のもとに視界が広がって、清は歓声をあげた。

 三月なかばに梅が開くここでは、四月も下旬にかかろうかという今が桜のさかりである。

 善野盆地の外輪をかこむ山々からも残雪の消えたころ、銀鼠ににぶく輝く木々の樹冠のうえは日々刻々と微細な彩りを増し。

 河原の土手に植樹されたソメイヨシノとはまた違う、ひときわ白い山桜のほの明かりも、裾模様のあちらこちらに散見されている。

 鳥が梢で高く鳴き、一陣の春風がなまめいた花の香りを抱き込んで、かすかに渡って行った。
 
 
     ☆
 
 
 カスミ沢というのはその名の通り、流れが速いために気泡を含んで濁ってさえ見えるが、本当は、ごく清洌な湧き水をたたえた、幅は一. 五mほどの冷たく鋭い渓流である。

 道とも言えない落葉樹林の踏み敷きあとを抜けて、いきなり見晴らしの開けるあたりは川べりの草地になっていて。

 大人の腕ほどの丸太を三本並べて樹皮ごと縄でくくっただけの、簡素な橋がかけてある。

 「……転(てん)でぇやぁ?」

 二人並んでは通れないそれに心配症の博文から危惧の声が上がったが、苔と水しぶきで滑りやすい幅狭なそれを、しかし平衡感覚は悪くはない清は、難なく乗りこえた。

 橋から下には丸石積みで列を仕切って流水を整えた場所があって、ワサビ田を見るのも初めてな都会っ子はしばらくあれこれ尋ねる。

 橋から上に広がる斜(ずり)面は原山(ばるやま)さんちの牧草
地。

 古くは農耕や運搬に使う小型馬(おおしぃま)を代々産していたそうだが、機械の普及に流されて畜牛業に転換し、今では市内最大の乳牛牧場である。

 まだ春が浅いので牛は畜舎で飼料をはんでいる。

 谷地(やち)口にある青い屋根の加工場で自家殺菌したミルクは近隣の学校給食に卸すほか、問町商店街の一部の店でだけ、その日のうちに買うことが出来ると言う。

 家業の高橋豆腐店で、これはミルクプリンを製造する手伝い(もっぱら味見)をしている博文がつい宣伝を始めると、今度ゼッタイ買いに行くからと、清は目を輝かせて約束したものだった。
 
 
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 見慣れぬ自然の風景に、編入生があまりはしゃいで興味を示すので、ついでだから少し回り道して月神宮(つっかんみや)にも詣で、山頂からの善野の眺めも見せてやろうじゃないかという、純粋な好意から出た四人の提案は、しかし裏目になった。

 ゆるやかではあるがけっこう長いダラダラの登り坂……しかも木の根が多くて足場が悪い……の中腹三分の一あたり。

 もともと新学期が始まって以来の緊張と疲労がたまって体調の悪かった(しかもそれを顔に出さないよう我慢していた)清は、とうとう貧血を起こして、倒れてしまったのである。

 慌てふためいた四人組は、一番の力持ちである出来良の背中に清を背負わせて、おろおろしながら家まで送って行った。

 出迎えた磯原夫人に、「無理をさせてしまってすみません」と、一斉に謝ったのであるが。

 夫人は笑ってとりあわず、逆に、迷惑をかけて申し訳なかったと、頭を下げながら、

 ……こんなのは、いつもの事だから、あまり気にしないで。

 軽く告げられた言葉が、逆に四人の心臓に染みこんだ。

 幼い頃から野山で育って来た彼らにしてみれば、ただ歩き回っていただけのつもりでも、長期療養のあとで筋肉も脂肪も落ちている清にとっては、十分ハードな遊びで。

 毎日それではとても体力がついて来れないと、気がつくと同時に反省することしきり。

 ……これからもどうぞ、一緒に遊んでやってちょうだいね?

 夫人の言葉にもちろんですと、良い子の返事をし。

 天気のよい外遊びの日には清を先に図書館まで送り、夕方また迎えに行って一緒に帰らぁというパターンを定着させたのは、自分もけっこう読書好きな千の発案によるものだった。

 ……そんな風にして磯原の末っ子は、仲間たちに大事にされながら善野の暮らしに馴染んで行ったのである……。
 
 
 
 
 

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