第一話 地 上 (アース)
こんなばかなことがと、くりかえし呟いた。
「義姉さんさえ、あんな考えにとりつかれたりしなければ、こんなことにはならなかったのよ」
若い叔母の途切れがちな声が戸棚のなかのディビニアの耳にとどく。
この騒ぎが始まるまえに母親からすごい力で暗いかたすみに押し込められたのだ。
飾り格子のすきまから見える部屋の中は壁も床も一面に赤い絵の具でベタベタになっていた。
(こんなに汚したら母さまが怒るのに)
なぜ母は彼らをきちんと叱りつけないだろう?
部屋のなかに倒れているたくさんの人間たちから絵の具は途切れることなく流れ出していた。
はじめてみるキツい深紅を、たしか絵の具とは呼ばないはずだと五歳の少女はぼんやり考える。
そうだ……これは「血」という名前だったっけ。
手や膝をすりむいたときにぽちっと滲みだすものとは違う。
ときどき母さまの下着に染みついている緋色より、もっともっとたくさんの、血。
(たくさん出るのはたくさん痛いんじゃなかったっけ?)
それに「死ぬ」とかいうこともあったりして、とっても大変らしいのだ。
(母さまは、どうして?)
こんな大騒ぎをきちんと片づけないだろう?
いつもはあんなにきれい好きで、ひまさえあれば掃除をしたり、花を飾って友達を呼んだりするのに。
格子のすきまからは母親のすがたは見えない。
さっきまではすすり泣くような苦しんでいるような、きいていて恐くなるような辛そうな声が、部屋の向こうから確かにきこえていたのに。
泣いているらしい母さまのところへとんでいって、助けてさしあげたかった。
子供のじぶんでは何もできないけれども、慰めてあげるだけでもいい。
けれど母さまが呼ぶまではけして戸棚の奥から出てはいけないと、どんなことがあっても悲鳴をあげたり泣いたりしてはいけないと、きっぱり念をおされた言いつけをディビニアはきちんと守って歯をくいしばっていたのだけれど。
「………………ディビー…………」
やっときこえたしゃがれた音は、やさしい母さまの声とは思えないほどだった。
「……ディビニア……。……どこ……?」
「母さまぁ!」
ほっとして、少女は大声で泣き出した。
もう何も不安はない。母さまが、ぜんぶ良くしてくださるはずだ。
ずっとしゃがみこんで自分の腕をきつく握っていたせいで、体が動かなかった。
でも大丈夫。待っていれば、母さまがすぐに抱き上げてくれるはずだから。
「……まだ生きていたの義姉さま」
ツケツケと痛い針のような叔母の声がきこえた。
「百年つづいたミニストラエ家もこれで終わりね、あなたのせいで」
父の亡いあと女当主となった母に、一族のみながきつくあたるのはいつものことだった。
「レーダ、わたしはまちがったことをしたとは思っていないわ」
細く震えながら、けれどいつものようにゆらぐことなく静かに反論するこえ。
母さまが自分のところに来てくれるのは、もうすこし後になりそうだ。
あきらめてディビーは小さな腕で重い戸棚を押しあけた。
「そのかっこうで。……この、惨状(ありさま)で?」
部屋のなかはほんとうに真っ赤でどろどろだった。
さっきまではディビーのお誕生会だったはずなのに。
戸口にもたれている叔母は、さむいのになぜか服を着けていなくて、びりびりに破れた布の残骸のあいだから、やっぱり赤黒い液をどくどくと流していた。
「だからこそ……、こんな非道なことをする彼らを、許しておいてはいけない」
反対がわで何とか起きあがろうともがいている彼女は、叔母よりもひどい顔色だった。
今日のために新調したばかりの淡い水色のドレスは直しようがないほどのズタズタ。
おなかに大きなケガがあって苦しそう。
尖ったナイフが突き刺さったままでいるせいだ。
「母さま! 痛いっ?」
「いい子ね、ディビー。……だいじょうぶ」
お風邪をひいた時よりも、ずっと蒼いかお、震える声だった。
「抜いてはダメよ……、出血が酷くなる」
「どちらにしてもアナタも私も、この傷ではもう救からないわ」
「そうね」
あっさりとうなずいて、少女の母親は残された気力だけで、弱ったからだを起こした。
「徹底している。これが彼らのやりかたよ。見せしめの為なら女も子供も見境なく、一番残酷な方法で殺す」
「……母さま……?」
「あなたにだけは、あやまらなければ」
こんなに小さいのに、たった一人にしてしまう。
つぶやいて、泣きながら彼女は娘を抱きしめた。
「生きて。お願い。生きて」
母さまのように非暴力への信仰をつらぬかなくてもいい。たとえ盗んでも、殺しても。お願いだから…… どうか、生きて。
「母さま。いやぁ、母さまっ」
さっきから嫌な臭いがしていた。
階下から煙があがってきている。
火事だ。
彼らが火をつけていったのだ。
「逃げて。生きのびて」
いつの日か、自分のちからで幸せに。
「ディヴィニア……、これからは人に名前をきかれたらデイヴァインだと答えなさい。ディヴァイン(神の恩寵)よ。これなら男の子の名前だからね……」
あなたにはまだ解らないだろうけど、できることなら外の世界では女だということを隠しなさい。
外は、地獄。
それでも。
「……いいえ……、たとえ神に背いても、売春婦に堕ちてもいいわ……。
生きて。」
あふれる涙をぬぐいもせず彼女は娘をバルコニーの階段へ向けて突きとばす。
「母さま!」
「言うことをお聞きなさいっ!」
「母さまぁ……っ」
煙にまかれて咳きこめば腹部からの出血がいっそう酷くなった。
義妹のレーダは苦しみ焼け死ぬよりはと、もはや自殺を選んだらしい。
主のおしえに背く行為だ。
わたしはどんなにくるしくても。
星ひとつない夜の荒野へ駆けていく娘を見送りながら、クリスタ・ミニストラエは最期のちからで立ち上がり、バルコニーの手すりにもたれかかった。
「たとえわたしがたおれても、誰かが次なる夢を迎える」
聖リース、救主(すくいて)と呼ばれるリースマリアルが撃たれて果てたときに遺した言葉を呟いてみる。
だいじょうぶ。あの子はかならず生きのびる。
「いとしいディビー……」
木製のバルコニーに火がまわり崩れ落ちるまでたいした時間はかからなかった。
「……母さま……ぁ……っ!」
わずか五歳で少女はすべてを失った。
のちに地球系開拓惑星連邦(テラザニア)の星間警察において史上最年少の女神(ミニマム・ディーヴァ)として活躍するディヴィニア・ミニストラエの、幼い日々のこれは物語である。
.
第二話 地 獄 (ヘル)
かつて地下核シェルター〈北米S(サウス)−127〉として建設された街市の末期における総人口は推定約三万。隔壁扉が封鎖されていらい千数百年を経て、最終戦争を生き残った人々の子孫である住人
たちからは単純に〈地獄〉(ヘル)と名付けられていた。
大旦那(プレジデント)と呼ばれる一代限りの独裁者と、隙あらばその座を狙う権力者、旦那衆たち(チーフパーソンズ)。
彼らに仕えることで比較的富裕な暮らしを保障されている知識階層の平民。
そしてその所有物となり辛い労働に耐えさえすれば、少なくとも働ける体のあいだは飢える心配だけはしなくてもすむ、奉公奴隷。
伏せた半球形をした地下都市の設計構造そのままに、厳然たる階級構造(ヒエラルキー)をなして住み分ける彼らの中でも、奴隷たちより更に低い・卑しい身分と蔑まれているのは、現時点で正規に使用されているうちでは最も下の階に広がる迷路のような貧民窟
(未完)