社長に直訴したのである、彼は。

 ことの初めは念願のマイホームを、通勤にはかなり不便だがまあ仕方がないと郊外(田舎!)の町、大野の新興住宅に求めたのだが、移り住んでみたらば、この町の古い街路の風情のあること、あまるほどの自然と農地のあざやかで美しいこと、こんな見事な観光資源が今までさして脚光も浴びずに埋もれていたとは、なんてもったいない……!! と、もりあがって企画書を提出したところが、あっさりとボツになった。という事である。
               (まぁこんなもん)ではあるが

 
 
 伊藤幸夫、39歳。実際より10歳(とお)は若く見える童顔で、それでだいぶ損も得もしている。中堅旅行代理店からヘッドハンティングされて、Sグループ観光資源開発(株)の課長職に就いたのが4年前。はえぬき社員のライバルと企画部長の座を争って一敗地にまみれ、大阪支社にとばされて半年。現在は、関西地区資源開発部長補佐の肩書きを名刺に印刷している。敗者復活の合戦場として彼が設定したのが中部地方の小都市・大野。Sグループオーナーの出身地というオマケもついて、伊藤としては満を持しての企画会議であったのだ。
 「えー、お手元の資料を御覧いただけばお判りになります通り……」
 
 
 「ちょっと待った、そいつは早計じゃないかね?」
 おもむろに手を挙げて発言したのは本社企画部長である、伊藤の仇敵だった。
 姓は條夫(しのぶ)、名は薫。今年42歳という割には見ばのいい独身女性で、オーナーの愛人というウワサもあるが、真偽のほどは定かでない。とまれその地位は実力でこそ得たもので、社内の、特に女性スタッフからの信望は篤かった。
 ちなみにSグループは系列各社とも完全な男女平等である。平社員であれば誰でも同回数のお茶当番を果たさねばならないし、無論入社当初の研修を兼ねた外廻りの営業からして、女性にも、男性とまったく差のないノルマが課せられる。叩きあげの実績と自信をもつ、遠慮のない女性たちの、その発言力も、旧態依然とした既製資本からの転職組には、実は秘かに苦々しいものであったのだ……むろん、この御時世であれば、もろ手をあげて歓迎、の風を装おわねば、部下の女性ひとりも動かせないのではあったが。
 
 
 「まぁ、可能(できる)と思うならやってみるんだな」
 50代にようやく手が届こうかという、長身美貌の経営王は、なかば嘲うような表情でそう言った。
 成功しないまでも何かしらのメリットは出てくるだろう。失敗してもたかがその程度の赤字ならいくらでも埋められる。」
 ……誠意をもって方針を説く、ような、経営者の美徳を、この男は持ち合わせていなかった。むしろ決して部下の業績を誉めたことはない。自尊心の高い傘下企業の主たちはこのオーナーの前に出るたびに心中秘かに切歯扼腕して、いつか、この男に俺を認めさせてやる……と、憎悪に近い執念を燃えたたせるのである。
 それも、一種のカリスマとは、言えた。
 
 
 「いくら美人だっていえ、女も、ああ可愛げがなけりゃ終わりだね。」
 
 
 
君臨すれども統治せずのような60代の名目社長
/ 実業王 財界の覇王

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