一、
 
 遂に鋭(えい)は力尽き、深い森の中で意識を失ってしまいました。
暗黒よりもさらに深いかと思われる闇があたりを押し包み、左腕(鋭は左利きです)の銃創を縛った布からさらにあふれ出した赤いものが小さな流れを作ってゆきます。
鋭にはもう、規則正しく一定の間をおいて命がしたたり落ちてゆくかすかな響き以外、何も感じとることができませんでした。
 手も足も痺れて冷え切って、体の自由が利きません。
先程までの豪雨を否定するかのように、森はこの上もなく深く沈黙し続けています。
  今夜一晩。)
言葉に現れない意識の奥底で鋭は思いました。
(明日の朝には確実に、僕は冷たくなっている。)
 胸の方で、何かかすかなおき火のような存在が、それでも生きたい生きたいと懸命にもがきたてているのを、鋭自身は静かに見つめていました。
“死”はなぜか恐しくはなかったけれど、それでもやはりこんな所でたった一人、濡れた草の上に体を投げだしたまま古くなった雑巾のように冷たくなっていくのを待っているのは、たとえようもなく哀しい事でした。
なぜ、こんな所で、たった一人で   
それを思うと、鋭の見開かれたままの瞳からつつつと涙がこぼれました。
体の心も冷え切っていて、それと同じように冷たい冷たい涙でした。
 (生まれてすぐに親にさえ見捨てられた僕だけど)
(それでも友達がいた。先生達がかわいがってくれた。結構幸せに暮らしていたのに)
ナンデコンナコトニナッタンダ。ナンデ。
  鋭の心が一枚の傷ついたレコード板になって、ぐるぐる同じ質問の上を走り続けて行きます。
(初めて憧れた優しい女の先生だっていた。
 人よりずっと大きな夢を持っていて、
 どこまでも追いかけてゆくはずだったのに)
ナンデコンナコトニナッタンダ。
 鋭は実の所まだたった12歳の少年でした。
幼ない頃いつもおんぼろプレイヤーにしがみつくようにして聞いた、あのすり切れたレコードの中の小さな子守り歌を、
(死ぬ前に一度っきりでいいから)
  どんなガラガラ声でも構わない。生んでくれた母の声で聞きたかったと、長い間ごまかし続けて来た想いを今鋭は素直に願いました。
 やぶや下枝をかきわける、かすかにガサガサいう音がした時も、鋭にはもう聞きとるだけの力がありませんでした。
いつの間にか彼の目の前に、白いぼうっとした優しい人影が立っていました。
鋭は残された最後の力で泣きそうにかすかに微笑み、さしのべるつもりで傷のない方の右腕をわずかに持ち上げました。
「うれしいな。迎えに来てくれたの、母さん……?」
そうしてそれっきり、鋭の意識はふっつりと途切れてしまいました。
 
 
 
 
 
鋭は残された最後の力で泣きそうにかすかに微笑(ほほえ)み、さしのべるつもりで傷のない右腕の方をわずかに持ち上げて、
「うれしいな。迎えに来てくれたの。母さん……?」。
そうしてそれっきり、ふっつりと意識が途切れました。
 
 鋭は幾晩もうなされ、うなされて、意識の深みの泥沼にひきずりこまれ、また浮かびあがり、そんな風にしてかすかに目を開く度にのぞきこんでいる白い顔を意識しました。
その白い顔は自分と同じ年頃の風変りな顔dちの美しい少女で、不思議な事に豊かな緑色の髪で縁どられています。
鋭は夢現の中で、その少女が見た事もない生みの母か、さもなければ血を分けた姉か妹ででもあるかのように感じて、苦痛が走り抜ける度に救いを求めてその少女を呼び続けました。
 少女は始め鋭の体の脇にぴったり沿うように横たわって、冷え切った少年の体を暖めました。
体に熱が戻り、ほとんど瞬間的にそれが高熱にうかされる状態に変わると、今度は枕辺につききりで汗をぬぐい、額を冷やし、たまに姿が見えなくなったと思うと、次にうっすらと気づく頃には薬湯や冷たく冷えた何かの液体を用意して、再び心配そうな優しい瞳を鋭の方へ向けているのでした。
 
 車のエンジン音が聞こえたような気がし、重い扉の開く音と男女の静かな話し声があたりの静けさに波紋を投げかけました。
 
 
 
             (未完)

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