2.
ユーラシア大陸、極東。海に面したシゾカ・第三ドームシティの郊外……。
かつて
崩壊した百万都市の上に火山灰が降り、次いで何万tという土砂が雪崩れ落ちた。雨が降り、土中の人々の死骸が分解し、雨が降り、初めての草が芽生えた。小百合は一度だけ、その恐ろしい話を淡々と語る母の口から聞いた事がある。今、そこには見渡す限りの原野の花園とそれに続く豊かな後背丘陵。かつての汚濁にまみれた広大な湾をも数百メートルの地下に眠らせて、“地球統合政府”の手による若々しく美しいドームシティの建設が進められている。そして
シティの郊外の外れ、後背農地の開拓もここ当分は行なわれないであろう、大自然との狭い目に、その家は建っていた。
小百合は、いつもガラス越しに母さまを見ている。いつもいつも見ている。母さまは蘭(ラン)冴夢(サエム)、二十九歳。十八で結婚し、二十三で無理と言われていた出産をしてからは、すっかり心臓を弱くして、殆ど毎日が寝たり起きたりである、長い美しい灰色の髪をした婦人だ。小百合は寂しくなると必ず、母さまのいるサンルームの前の庭に出てきて部屋の中の彼女の似顔絵を描く。
切れ長の、いつも彼方を見はるかしているかのような灰色の眼。ぬけるように白い肌。すらりとした長身にかならずまとっている青灰(あおばい)色の祭司の服。
母さまのお腹が少しづつ大きくなっているのが自分の妹の為だなんて、小百合は少しも知らなかった。周囲の大人達が知らせようとしなかったからだ。何故なら、それはtだ妊娠初期に肺炎を併発していた冴夢には中絶手術に耐え得るだけの体力も無かったというだけの事であり、三ヶ月後にひかえた出産は、妹よりは母の死を子供に与えるだろうと思われていたからだった。
小百合はそんな事は知らない。大好きな母さまは御病気なのだ。だから無理を言って困らせてもいけないし、母さまの見える所で心配をかけるような危ない遊びをしてもいけない。いつも学校から帰った後は、母さまのいるサンルームの前の庭の中で、宿題をしたり母さまの絵を描いたりして過しているのだった。
冴夢が妊娠している事が判明してからは、彼女はずっと無菌室に改造したサンルームの中で暮らしている。お医者様はその消毒機構が子供にはよくない影響を与えるからと言って、小百合が中へ入るのを認めてくれなかった。だから小百合はもう半年以上も、母さまの腕に抱いてもらっていない。……
三月二十七日、その日、蘭冴夢は既に彼女の職とも言うべきものになっていた“祈り”をも忘れて、一心に心眼を凝らしていた。
かつて味わった事のない不可思議な予感
その感じは、朝、目覚める以前から意識の片すみを刺激し続けて、冴夢に何事かを告げて止まないのだ。“何か”が近づいて来る
しかしそれがどんなものであるのか、果たして善いものであるのか、悪いものであるのかさえ、判断する事ができない。
幼ない頃から“部族”の語部(かたりべ)=神官として霊感の強さを得ていた彼女にしては、それは生まれて初めての経験だと言っても過言では無かった。
夫ヨセフィア・アークタスは、小一時間程前に地球統合政府からの緊急呼び出しを受けて出掛けて行った。彼はシゾカ・シティ区域代表の総会評議員なのである。
彼女は再び目を閉じて意識を瞑想レベルにまで拡大させた。自己の内外に漂う全ての情報を捜査・点検して、何とか一刻も早く不安の源を突き止めようとする。
もうこれで朝から幾度目になるのだろうか? 日頃の“祈り”でさえも実の所は医師から止められている程精神の統一を必要とするものなのだが、それでも今日のこれの比ではない。だが冴夢(サエム)は、例え著しく精神エネルギーを消費してしまう幽体脱離や未来予知を行なわねばならない事になろうとも、必ず自分が感じているものの正体を見極めて見せるつもりだった。
夫が留守であってかえって良かったのだ
心配して必ず止めに来たであろうから。
彼女
“地球統一者”である、かの人リースマリアルが四十二歳の若さで他界されて十年。今、地球及び太陽系内・系外の何処を探そうとも、冴夢より深い教養と天性の気高さとを維持している者は他には居ない
まれにその風評を聞きつけて、若さにまかせて彼女の実態なるものを観破すべく押しかける若者達も存るが、その大半は以後彼女の謙虚だが決して物事に動じない静かな眼の色に魅かれて、秘かに師と仰ぐようにさえなるのだった。
滅多に汗をかく事のない彼女の全身がじっとりと重く熱い湿り気を帯び、レッドアウト寸前になった額を指で支えながら、冴夢は懸命に整息法を行う事によって失神状態に陥いる事を防ごうとしていた。
何かが「見えた!」と思った瞬間に、心臓発作が彼女を襲ったのだ。「何か」は一閃して水面下に消える銀のうろこの魚のように、彼女の心の届く範囲からは姿を消してしまっていた。おそらく二度と再び捕える事はできまい。
彼女は「絶望」に近い感情の逆巻きに足をとられてしまった様だった。
“何か”
ずるずると滑り落ちるように絶望の暗黒の淵に向いながら、蘭冴夢はいつの間にか泥沼の眠りの中へと引き込まれて行った。
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