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 五月のことだった。

 クラブ活動が始まって下校の遅くなる出来良と勇二とはしばらく別行動で、千や博文と一緒に本屋や図書館通いの日々。

 なまじ外遊びの楽しさに味をしめただけに屋内でおとなしく過ごすのにも飽きてしまって、もう少し、身体を動かしてみても良いかなと、考え始めた頃。

 連休のあいまの飛び石の登校日、今日は体調が良いからと言い張ってほんの五分ばかり体育の授業に参加してみた虚弱児は、やっぱり午後から少し熱を出してしまった。

 今日は部活が休みだという出来良や勇二ともせっかく久しぶりに一緒に遊べるのにと悔しがり、母が留守にしているので自宅に帰って一人で寝ているのは心細いとも、言う。

 しばらく保健室で清を休ませながらの巨頭会談のあと、一番広い千の家に全員で立ち寄って、釣りでもして時間を使おうじゃないかと、そういう話になった。
 
 
 千の自宅・七木家の屋敷は五芒山(ごぼうさん)を大回りにする公道そいの巡回バスなら二〇分、清の家をも通り越した反対側の、二中の通学範囲としては一番遠くにあたる、森のきわである。

 土地の林業の総元締めとて、総桧づくりの大きな邸宅に、ため息をついて見とれ。
 
 屋敷うちの秘め宮である《無名鬼宮》(ななきみや)の建築様式を見たいと騒ぐ。ねぇねぇねぇのお願い攻撃に負けた千が巫女(みやご)さまに頼んで、滅多に開かれる事のない宮の門扉を、特別に開けて貰った。
  
 ひとしきり感動して騒ぎたてた清は、どうやらその事で最後の体力を無駄に使ってしまったらしい。

 砂利敷きの小道を歩いて千の私室のある離れに辿りつくなり、いま客布団を敷いてやるからと声をかけるのも耳に届かない風情で、そこらにあったクッションを枕代わりにくうぅと寝入ってしまった。
 
 
 そうなると、暇になるのは残りの四人である。

 そばで騒ぐわけにも行かないし、置いていくのも不憫だし。

 やがて、しょっちゅう出入りしている出来良のほかの、遠縁にあたる勇二と博文に会いたいと、寝たきりの七木の大媼様から呼ばわりの使いがやって来た。

 大媼様の説教(くりごと)は、長くなるので有名である。

 これは当分帰って来ないなと見当をつけた千と出来良は、ちょうどよい機会とばかりにかねて懸案の内緒の相談を始めた。

 雑然と積み上げられた本棚のほかには意外に片づいた千の部屋。

 地図や資料を引っ張り出して、ああでもない、こうでもない。

 ときどき見やると清は寝返りを打ちつつ幸せそうな顔で。

 やがて、二人の足音とにぎやかなブータレが聞こえてきて、慌てて散らかしていた資料を机の下に押し込んだ。
 
 
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 「……ねぇねぇ、ゴミ削(そ)ぎ削(そ)ぎの金曜デイって、なぁに?」

 いきなり上がったとんでもないセリフにぎょっとして見やれば、大人しく熟睡しているとばかり思っていた清が寝ぼけまなこをこすりつつ、もそもそと起きあがってくるところだった。

 「ゴミ、そぎそぎ……?」

 聞き慣れない発音に博文が一瞬理解をしかねると、

 「あのね、出来良がね、えーっとね、」

 寝起きのすこしかすれた声で、舌たらずに説明しようとする清に、

 「……駄目(でぃ)だ(や)ぁっ……!」

 黙らせようと派手に叫んだのが出来良、往生ぎわよく頭をかかえこんで博文の攻撃範囲からいち早く逃げ出したのは、千のほうであった。

 回転数のはやい頭でもって一瞬後には隠されていた話題を理解したクラス委員は、

 「お前(あれ)らー! 神妙(おんな)しぃ出削(いそ)ぎすでぃやらんやっ?」

 「しかも外来(そとくぅ)の清にその話を聞かせただぁ?」

 どかんとばかりに出来良の頭上に通学カバンを投げつけた。

 「誤解だっ、寝てると思ってたんだっ!」

 怒鳴りかえした出来良がプロレスわざで応戦して、あとはもう泥沼。状況はよく判っていない勇二がとりあえずと手近のウチワを手にとって、(プロレスなのに)行司のまねごとを始めた。
 
 
 
 〈御々十三斎〉は事実上の善野の成人式である。と、いうのに、この二人の子供である事といったら……。

 自分の事は完全に棚に上げておいて千は一人でため息をついた。

 清もそうだが、本人はここで生まれ育ったとは言え、父親の代にここへ移って来た横川クリーニング店の一人息子である勇二も善野式の分類法では〈外来〉のうちである。

 その二人の見ている所で安易に口にする奴らがあるかい。

 ……ここまで騒がなかったら胡麻化しようもあったのに……。
 
 
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 《御々十三斎》(ごみそみそぎ)は善野でも特に大事なしきたりの一つで、毎年冬から秋にかけて行われ、〈八十一家〉(やそかみや)に属する旧家の子供たちは男女を問わず、善野式の数え年で十三歳になれば、必ず参加する習わしだ。

 初めの数度はいわゆる座学というやつで、〈八十一家〉を束ねる〈九上家〉(このかみや)の長老たちから口伝を聞かされて、どのぐらい内容を覚えられたか試験までされるという、けっこう責め苦な行事なのでもあった。

 問題は、それが近年では毎月一回、日曜日の昼間にやるというところにあって。

 戦国や江戸の昔はいざ知らず、今の善野には外界(そと)とのつきあいだってある。とくに困るのは部活に燃えている者が、対外的な試合の日程と重なってしまった場合だ。

 泣くなく出場を諦める穏健派もいれば、《御々十三斎》から脱走する悪童もあり。

 どちらにしても悲喜こもごもなその選択の結果については、いまだ十三歳に至らない子供たちには尾ひれ背びれの恐怖をはやし、漠然とした噂が流布されている。

 そして。

 さぼった結果の罰則について、どうしても承伏が出来ないという者たちは。

 毎年のように、やってはいけないカンニング、《御々十三斎》の掟破り(きんやうでぃ)の徒が、出現したわけだ……。
 
 
 七木 千 (しちき・せん)は正月早々にラジコン飛行機の全国大会で、惜しくも優勝は逃したが少年の部の銀賞を取り、よって〈斎〉(そぎ)の日のそれも大事な第一回を堂々とサボタージュしたわけで、来年の一歳遅れの組に落第と、大人達の意見は簡単にまとまった。

 これは幼なじみ同士の競争意識がつよい善野においては本来かなり不名誉なはずの処分なのだが、もともと千はいたってマイペースな性格で、文句もなく淡々と従うつもりでいたので彼については大事はなかった。

 (場合によっては来年の〈斎〉でさえラジコン大会の前には優先順位が負けるのではないかという、伝統行事に対して今どきの子供が示すクールさについての、一部の大人達の苦笑まじりの危惧なら、もちろんあったのだが)。

 問題は、この六月に一年生ながら相撲部の県大会へと出場を決め、例年のように優秀な戦績を納めて来た、出来良(できら)家の名物末子(しめご)の、了(りょう)だ。

 負けず嫌いの彼のこと、小学時代以来の県下他市のライバルから「出場も出来なかったのか」と嘲笑されるよりはと彼なりに深刻に悩んだすえに敢えて〈斎〉の日を捨てたはいいが、結果、何人もいる同い歳の従兄弟や従姉妹たちからは、「やぁし落第坊主な!」と、さんざんに揶揄(やゆ)される仕儀となった。

 千は出来良のまきぞえを喰ったのである。
 
 
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 「つまりは、宝探しの謎ときの一種だと思え」

 善野のしきたりを始めから全部説明しようとして余計に話をややこしくした博文と出来良と、要領を得ない物語にますます頭が混乱して来たらしい勇二と清の顔を見て、内心で頭をかかえた千はようやく、まぁまぁとばかりに話に割って入った。

 「自分で探しちゃいけないと言われているけれど、大人にバレて怒られる前に、答を見つけてしまえれば、こっちの勝ちだ」

 意外なところに転がっていた「宝探し」の大冒険ネタに、わくわくっと大きな目を輝かせて身を乗り出したのは清である。

 なにしろ長期入院中の退屈は、その手の本ですべて埋めていたという、欲求不満の持ち主だ。

 「無理に参加しないほうがいいぞ。」

 外来者が十三の歳にごみそみそぎに参加できるかどうかは、毎年の秋にやそかみやの長老たちの会議で決まるのであるが。

 秋生まれの清や勇二には、まだそのチャンスがあるかも知れない。

 いま自分たちの騒ぎに便乗してその資格を失うことになったら逆に損だろう。

 千が落ちついて説得に当たるが、清は参加資格の計算方法を聞いて、少し困った顔になり、下を向いてウフンと笑った。

 「でも俺、行けるかどうかも解らないのに、一年も我慢できないなぁー?」

 一瞬の表情にまわりが違和感をうけとる暇もなく、好奇心むきだしの顔で参加を申し立てられては、断れたものではない。

 結局、博文も勇二もひきずられてしまい、総員がかりの〈内緒ぅ事〉となったわけである。
 
 
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 たまたま相撲部前の廊下でくりひろげられた壮絶な親戚ゲンカを、止めに入りもせずに見聞した後で。

 あれは絶対に切れるやらぃと、生徒たちからは強面(こわもて)と恐れられているが実はたいそうな笑い上戸でおもしろがりやの邦彦は、大きな手のひらで自分のアゴをしっかり押さえつけながら、グフグフ楽しそうに報告に来たのである。

 相撲部室前の壮絶な親族ゲンカを見聞きして、民彦に報告いていた邦彦は、やっぱり切れると思っていたぜと、実は笑い上戸の顎を必死で引き締めて、どうやら磯原や横川までまきこんでしまったようだと報告の続きを届けた。

 邦彦は担任もってないので比較的ひま。

 シメゴシの組織は善野中にあるので、連絡を待っているだけでも結構情報は入る。

 出来良のなれない読書。

 清が意外に詳しい。

 外来の清に善野を案内するという名目で、いたる所に顔を出せるというのは意外な効能だった。

 「案内してるんでーす」

 「そうかぁ、がんばってなぁ」

 見え透いた言い訳に陰で笑いを噛み殺す沢木の双子であった。
 
 
 
 
 


 
 
 じぃーわぁー……、じぃー……、

 わぁー……

 気の早いセミたちが梅雨のなかぞらの蒸し暑さを盛りたてている。

 裏山に繁る夏木立のうえ、蒼天に雲の流れるさまを、二階の窓際にひっくり返って見るともなく目を開けて、ごろごろしていた清は、

 「こーあーらぁーっ」

 表の道から遠慮なく呼ばわる声に、ぴょんとはね起きた。

 「コアラじゃないわいっ」

 窓から乗り出して叫ぶなり、いま行くとも言わずに身をひるがえして階段をかけ降りる。

 越してきて三月あまりであきれるほど元気になったと家族の目を細めさせている清は、裏庭で洗濯物を干していた母に、

 「かぁさーん、出かけて来るっ」

 短く告げながら冷蔵庫から手作り弁当を取り出して、たったと玄関へ向かった。
 
 
 
 ここのところ一年三組ではカタカナ名前が流行している。

 例えば名字が高橋だったら単純しごくに〈タカハッシー〉とか、出来良はなぜだか〈デキラー総統〉だとか。

 くだらないモジリを入れては面白がって、呼びあっていたのだが。

 清の姓の〈磯原〉は、早口の善野なまりで発音すればイとHの音が抜けて〈ソアラ〉になるが、これは野者の方言では、〈外荒〉(そとあら)つまりヨソモノで、野蛮人とかの意味もある。

 気が強いわりには繊細な神経をしている転校生のアダ名としては使えないぞと、しばらく協議の結果。

 さらに子音を入れ換えて、とある南方産の草食動物と同じ名前で呼ぼうじゃないかなと、最初に思いついたヤツは誰だったのか。

 あまりにぴったりだと喝采を浴び、あっと言う間にクラスに広まって、今では職員室への呼びだしにさえ使われているような普及度である。

 茶色い肌と黒い眼の女顔で、「かわいい」と評されてしまう外見の相似は、まだおくとして。

 しょちゅう貧血を起こしては“おんぶおばけ”と化して保健室に運ばれているイメージまでもが含まれているのは言うまでもなく。

 ちょっとばかりは屈辱を感じてもいる、清なのだが。
 
 
 「来(らぃ)た来(らぃ)た」

 「遅やぃ、コアラぁ」

 「だから俺さまはコアラじゃないぞ〜っ」

 すでにして抗議するのは本人ばかりなり。

 それだって本気でいやがっているわけではないのは見ていれば解るので、もはや周囲は笑って取り合わない。

 ガチャンと自転車の脚を蹴り飛ばし、一向は北へと向かった。
 
 
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 ……〈謎が辻〉探検隊。

 今日の目的地はそういう事だった。
 
 
 善野盆地の市街の北方には、戦後しばらくの開発ブームにも関わらず手つかずで残された、みごとに何もない荒野が広がっている。

 戦前には軍馬として徴用される運命の小型馬の放牧地だったが、耕作地として開墾がされていないのも、その故である。

 野生化した馬が何頭か、群れを作って暮らしているとも言うが、確認はされていない。

 〈原場〉(はるばる)と呼ばれるそこは根雪も凍る厳冬期には、模擬合戦から犬ソリから、ありとあらゆる遊びの場になるが、

 梅雨あけも間近となれば子供の背丈を軽く越す、カヤやヨモギやホウキ草、育ち過ぎで熱帯雨林のミニチュア状態と化した草の原は多彩な植生で埋め尽くされていて、とても子供の身長では、踏み込めた土地ではない。

 そのくせ何十年も放置されているくせに、なぜか背の高くなる樹木の類は育たない。

 たまに彦ばえが芽ぶいているのが原野のふちから望見されたとしても、それが三mほどにも育つ頃には冬の雪やら秋の大風やらで、必ずと言っていいほど倒れてしまうのである。

 地層が浅くて根が張れないのだという、大人の説明がつけられてはいるが。

 あえて探検に乗りだした子供らが堅い地面を根性で掘り返してみると、草の根がギシギシにからまりあう数十センチの痩せた土壌のその下には、けしてシャベルの歯も立たない謎の金属床が広がっているのだとも、いやいやうっかり掘り抜くと底無しの暗黒穴が口をあけて、不届き者をぽっかり飲み込んだまま知らない顔をするのだとも、ささやかれてはいる。

 事実、十何年かに一度は行方不明の子供が捜索される騒ぎになって、そうした子らが発見されたと警察に届けの出た事は、かつてない。
 
 
     ☆
 
 
 善野盆地の中央を流れる日の代川が長い年月の間にも削り残した堅い岩盤を主体とする小高い丘に登り、西に広がる原場を見おろしながら、そうした説明を清が聞いたのは、夏休み早々の晴れた日のことだった。

 一向が丘に登ってしばらくすると、地元の媼様が孫のみやごの手をひいて丘の上の小さな社に上がってくる。

 たしか〈八十一家〉で見たことのある顔だったと記憶力の良い千が、

 「小母(おな)さぁ、今日(えぃ)ま良(ああ)やぁ」

 きちんと挨拶すると、

 「良(ああ)やぁー?」

 のんびり声をかけ返して、微笑みながら社に向かった。

 社の五本柱の真ん中に黄色い旗をてっぺんまで揚げて、何の願かけなのか熱心におろがんでいる。

 その耳に入るかも知れないと思うと、そこで禁やぅでぃの話をするわけにも行かないので、場所を変えようということで、

 そうした話を聞きながら、縁辺の小高い丘に登って測量のまねごとをしていた清は「あれっ」と気がついた。

 「ねぇねぇ、あれ……」

 指さす方向、原場のまんなかを、恐れる風もなく一人で歩き過ぎて行くのは見知った顔である。

 「でぃー、杉谷やぃ」

 「あん所(ばる)なぁ、何(みゃぁ)やらぃ?」

 一年三組に在籍している更に最大の問題児、入学式からこちら一日たりともまともに出席した事がないという、杉谷好一の、大人なみに背の高い姿であるのは望遠鏡でも確かめて、間違いはなかった。

 事情をほとんど知らない清から見れば、混血のうえに登校拒否をしているという、自分とずいぶん似たヤツである。

 「もしかして、あいつも〈掟破り〉(きんやぅでぃ)をしてるんじゃない?」

 思いついたという顔で、わくわくと眼を光らせて清は言った。

 もしそうならば合流して、一緒に探検が出来るじゃないか。

 残りの四人……、杉谷が学校へ来ない詳しい事情を知る野者は、それを聞くなり一斉に首を横にふった。
 
 「駄目(でぃ)!」

 叱りつけるように言われて清は目をみはる。

 「……なんで?」

 「多分あいつは〈村八分〉(そぎのけ)の扱いだと思う」

 ちゃんと聞いたわけではない勘だがと、例によって大人たちの会話の断片から推理を組み立てていたらしい千が、それ以上の説明はせずに難しい顔でうなる。

 それってイジメの一貫ではと、自分にはこんなに優しいクラスメイト達の意外な言動に、元・登校拒否児がおびえたような困った顔をして黙りこむのを見て、博文は慌てた。

 「そんな可愛い性格じゃないぞー」

 なにしろ原チャリでさえない二五〇ccのバイクを無免許で公然と乗り回しているヤツである。

 清の感覚では横浜あたりの繁華街では、さほど得意な光景でもなかったのだが、ここはのどかな善野である。

 本人もこちらを馬鹿にしているのだから。

 恐いやつ、悪い噂のあるヤツなんだから。

 けっして構いつけたり秘密を打ち明けたりするなと、厳命されて仕方なく、約束はしてみる清である。
 
 
 
 
 
 孫とおぼしい童女が追いかけて来て、黒キイチゴの早熟の取れる場所を教えてくれた。

 丘の上から原場の地形と方位を確かめたあと、四人は日の代川の河原で弁当を使い、上流へと向かった。

 社の周囲の高さ2mばかりの例の五本柱に、四人の去った方向に黄色い布を半旗に掲げかえる媼の姿があった。

 もう一枚、原場の方向へも、半旗をつけて加える。
 
 
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 その杉谷好一は、遠目には無造作に見える歩きかたながら、足元に十分注意を払いながら、(まさか地雷は仕掛けてあるまい)、善野観光パンフレットには申し訳のように名前だけ並べてある「善野九不思議」の一、〈謎が辻〉の在処を求めているのであった。

 これだけ格好の遊び場でありながら子ども達からは禁断の領域とされている原場の、さらに東北辺、日の代川上流域にある白鳥天宮の御料林と境を接するあたり。

 とだけ記されていた場所を特定する為に、実は先刻まで清たちと同じ丘の上に登って方位を調べていたのは同じ行動だったのだが。

 時折り狂ったように震える方位磁石はあてにせず、

 黒々と艶を帯びていくらか粗い手触りの表面は、どう見ても金属としか思えないが、上に積もった苔や泥の厚さと、さらにそれがここのところひんぱんに降る酸性雨に冒されている様子もうそではない。

 にもかかわらず、まったく赤錆びてもいない。

 「まさか……隕鉄か?」

 インドあたりの謎の遺跡にあるという、けして錆びない金属柱の写真を思い出して、好一は首をかしげた。

 書いてある文字は古い自体でこう読める。
 
 

     誰 夢 明 日     

 
 
 
 「江戸時代初期に建立されたと覚しいこの石碑に記された文字は一つは「誰か明日を夢みん」と読み、残りは今日では判読不明なるも、厳しい山越えをして交易の旅にでる者たちの無事を祈る言葉であるだろう」と。

 こんな所まで足を運ぶ物好きな観光客を想定したわけでもあるまいに、ごていねいに解説が記されている。

 真新しい(少なくとも立てられてから数年以内の)しゃれたデザインの案内板を見て、いくらか頭痛を覚えた。

 誰が何の意図で散りばめている冗談なのかは知らないが、どうも知らずに罠に陥っているような、誰かから監視されている気もして首筋でちりちり警戒警報が鳴っている。

 曇りはじめているので太陽で方向を測る手段が使えない。

 これまでかとあきらめて東のかた、だいたい日の代川の方向へと見当をつけて向かった。
 
 
     ☆
 
 
 丘のうえにある社の柱に、二枚目の黄色い布が東をむいて掲げられるのを双眼鏡で確認し、市街地方向へ去ったと了解して、民彦はむしろ残念そうに呟いた。

 「惜しいっ、まっすぐに北上してりゃー」

 監視にまわっているバードウォッチング仕様の民彦と邦彦。

 「こう毎週、監視をしてたんじゃデートの暇もありやしない」

 「相手(あて)もおらでぇ、見栄な張りでやぁー」

 わざと善野の言葉を使い、そらっとぼける弟に、ガッシと肘鉄をくれて。

 野っぱらの真ん中で、いい歳をした三十男二人は、ぽかすかと兄弟げんかを初めたものではあった。
 
 
 
 
 

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