この話を書いたのは、正確には僕のいちばん下のおとうとの清なのだけれど、まあ誤字脱字のあらしの一人称手紙文を構成しなおしてワープロで打ったのは僕だし、大学のサークル誌に中坊の作文が載るのも妙な具合だし、弟にはあらかじめ話をつけて、夏休みのプール3回・昼食とアイス付き、という条件で著作権はぶんどってあるので、とりあえず僕のノルマ分としてページを埋めるのを許してほしいと思う。
 
 弟から毎日のように送ってくる日記がわりの手紙の内容の、本題にはいるまえに少しぼくら兄弟のことを説明しなくちゃいけない。
 
 広(ひろし)という名の僕をかしらに高(たかし)・透(とおる)・厚(あつし)と続いて、しんがりが清(きよし)という男ばっかりの五人。母は異国から嫁いできた女性(ひと)で、チョコレート色の濃い肌に、ほりの深い顔、大きな目、くるくるに渦まいている日に褪せた金褐色の髪。(彼女自身、ずいぶんいろんな血がまざっている)。ゆえに、僕たちは、みんなそろって世間一般の日本人とはちょっと違った外見をしている。

 古今を問わず、「まわりと違う子供」というのは、えてして仲間はずれというか、イジメの対象にされてしまいやすいわけで、僕らもごたぶんにもれない例だったけれど、幸か不幸か並よりはちょっといい頭と運動神経と、負けん気の強さは兄弟共通で、五人中、僕をふくめて三人までは、たしょう腕っぷしが強くなりすぎたという以外、なんの問題もなく素直に(自分で書くのもナンだが)、フツーに育った。
 
 (のこる五分の二のうち、まんなかっ子の透(とおる)に関しては、こいつには「まわりの日本人とちがう」うえに他の兄弟とも逆の、むしろ白人系の外見をした「血のつながらないもらいっ子」というハンデがつくもので、ひとなつこい見てくれのわりには、性格に三回転半くらいのひねり技がはいってしまった。こいつと高のハナシというのもぜひ書きたくてノートにネタはたまっているのだが、公表するのはまずいかしれないし、本人達もいやがるしするので、ちょっとメドはたっていない。……話が、それた。)
 
 問題の末っ子、清には、「混血(ハーフ)」の「美少年」(マジで)のうえに「病弱」という、絵に描きたいようなオマケがついた。
 ほんの赤ん坊のころから、誰がみても「まあ可愛らしいお嬢さんね」とほめちぎる、ぱっちりした目とくるくるの天パーあたま。客がくれば母親のスカートにかくれる人見知りの気性といい、なにかといえば熱を出して「かかりつけのお医者さま」の往診をお願いする体質といい……。
 ずっと女の子がほしくて息子ばかり五人も持ってしまった母さんが、ついつい一人娘を育てるように手をかけて、かけすぎてしまったのがまずかったか知れない。まして上に四人もけんかの達者な兄がゴロゴロしていれば、蝶よ花よとまではいかないものの、すっかり猫かわいがりのお座敷むすこになってしまう。
 三つ四つになる頃には、末っ子は、内べんけいの泣き虫で、負けん気は人一倍強いくせして争いごとはてんでダメ。どんなに大事なものを奪られても、おとなしく泣かされて帰ってくる……そこでまた、四人の兄きがぞろぞろ連れだって報復攻撃に出てしまう……という、今かんがえれば逆効果のうえに思いっきり卑怯(僕と末の弟とでは10歳も年がちがう)な、兄弟以外、近所に友だちの少ない、閉じこもりがちな子供に育ってしまった。
 そんな清が幼稚園で、ほかの女の子がいじめられてるのを助けようとして、かわりに十二月の薄氷の池のなかへ突き落とされた、というのは、むしろ上出来だとほめるべきだった。結果として半年ちかくも肺炎と喘息で入院してしまった、という点を除けば。
 
 僕ら兄弟の父親は、若い頃かなり高名なカメラマンで、そのおかげで外国で死にかけたときに病院で世話をしてくれた看護婦の母さんと恋におちて連れかえったのだけれど、とにかく当時の写真集の印税とかのおかげで結構財力もあり、上の四人はそろってバス通学の、小・中つづいたミッション系の私立に通った。だからこそ、混血といって、それほどの差別にも合わなかったし、まわりもみんな、そこそこに優秀で、余裕のある家庭の子供たちだから、引退した、もと報道家の息子ぐらいのことでは特別視もされない。
 とうぜん、何かと事情のある末息子もそこのお世話になろうというのが両親の計画ではあったのだけど、肝心の受験日に40度近い高熱で、池に落ちた幼稚園児は集中治療室にいたのだ。それにたぶん、退院しても片道30分の朝のバス通学は体力的に無理でしょうという医師の言葉もあって、清はひとり、歩いて10分の近所の小学校への入学手続きが決まった。
 ところで、入院したのが年の瀬で、何度も悪化したせいでいろいろ併発し、退院は梅雨あけどき、通学を許可されたのは七月もなかばになって、夏休みまでの数日間、ためしに、ということだった。
 ピッカピカの新一年生がランドセルもしょいなれて、すっかり仲よしのグループも固まり、プールだ花火だとはしゃいでいるところへ、「からだが弱くてみんなとは遊べない」という、ひとみしりの子供が、おずおずと数日まぎれこんでいたところで、しかも男の子というのに、ものすごくかわいい顔だちながら、肌の色濃い、ちがう外見をしているとなれば、遠まきにじろじろと見物されるのが関の山で、とうてい仲間になんか入れてもらえない。しかも、学校になじむ間もなく始まった夏休みのあいだじゅう、プールにも参加できずに家の敷地のなかだけで過した清が二学期の始業式に出た頃には、もの珍しさだけはすでに薄れてしまい、「ああ、そんな子もいたっけね」程度の扱いで…………。
 からだがほんとうに弱くて週に3日は休む、という末っ子が、それでも熱のない日には律気に時間割をそろえて静かに登校しているので、学校も違って内情のわからない僕たちは、せめて授業に遅れることはないように、と、せっせと交替で勉強をみてやった。これも、愛情から出た逆効果で、進学率の良さで知られる名門私立校の、しかも兄弟同士の暗黙の競争意識で学年での席次を10番と下らずせりあっているような兄貴たちは……自分の感覚でふつうの小学生を、「おちこぼれ」ないよう、教育したのである。
 清の持ちかえってくるテストはほとんど100点とか98点だった。たまに間違えて80点などあろうものなら、一生懸命みんなでなぐさめて、どこが解らないのかとことん調べてやって。(公立小の低学年のクラス平均なんて60とればいい方だ、なんて、僕らは気付かなかったのだ)。
 おもえば当時から、父は、片脚を失ってカメラを手離して以来、自分が私立中学の英語教師として勤めている……早い話がぼくの担任だった……こともあって、そこまでする必要はないんだと、何度も僕たちをいさめていたのだけれど。
 自分が高校受験の体勢にはいってカリカリしていた僕は、からだが弱いからといって成績まで悪くなったら可哀相じゃないか、と、ムキになて反論したことがあるのを覚えている。
 そんなわけで。
 あまり学校に来ず、いてもだれとも遊ばず、まちがっても昼休みのドッヂボールに参加したりはしないで、学級文庫のまえでおとなしく本を読んでいるか、あれいないなと気付くと保健室で寝ていたり、ガイコクジンの母親が迎えに来て帰ってしまったあとだったり……そうでなくても「ゼンソクにわるい」とかでホコリのたつお掃除の時間を免除されていて、みんなより早い時間に、いつも消えてしまう。
(だから、このクラスだけ、HRをしてから掃除になるのだ)。
 そのくせ、テストの成績はやたらによくてしょっちゅう先生にほめられ、授業中だけは兄貴たちのお仕込みよろしく積極的に手をあげて、しかもよくあてられる、とくれば…………。
 今となっては、僕は、清をいじめた子たちを責められないとは、思う。
 
 そう。学年があがり、からだのほうは段々と丈夫になるのに反比例して、清はいじめられっ子にされたのだ。それも、へたをして「発作」をおこしたら困る、という程度の知恵は小学校も3年、4年となってくるとまわるようになるから、殴る蹴るよりもっと陰湿な、「言葉の暴力」というやつでもって。
 「ガイジン」
 「ちゃいろ」
 「キタナイ」
 それが、いちばんよく使われた単語だと、あとで書かれたクラスの反省文集で、僕らは知った。
 僕らもしょっちゅう、言われた。言われるたびに殴りかえして、とっくみあいで相手を泣かして、とうとう誰も何も言わなくなるまで、喧嘩をしつづけたし、それは言ったほうが悪いとさとしてHRをひらいてくれる、先生たちのサポートの期待できる学校だった。そうでなくても僕ら、うえの四人は全員、頑として、絶対に譲らなかったと思うが。
 
 清は、ひとことも、だれにもなにも告げ口しなかったのだ。
 
 本当に、ことが発覚するまで、僕らは、両親も教師も含めて、ただ清を「甘えんぼうの、口数のすくない、内弁慶で、からだの弱い」としか、見ていなかったと思う。
 しょっちゅう、何ヶ月も何週間もの入院生活だとか、苦い薬や痛い注射や、今度こそ危ないかというほどの喘息の発作を繰り返しながら、けれど泣き言や、まわりを本気で困らせるようなワガママを、そういえば決して口にしない子だったと、ずいぶん遅くなってしまってから、はたっと気がついたのだ。
 
 「ビョーキがうつる」
 「死んじゃえ」
 「ズルやすみ」
 「サボリ魔」
 
 言われ続けて、なお一言も、いいかえそうとはしなかったという清が、体育の授業に、少しづつ参加していいと許可が出たのは五年の初夏だった。
 プールで泳ぐのは喘息にいい、というのは定説だそうだけど、プール開きになる前までの時間がみんなの一番嫌いなマラソンとか体力測定で、そのあいだはひとり教室で涼しげに自習をしていた清が、「楽しい」プールにだけ混ざり、しかも不必要なほど先生にかまわれて、ひとりじめしている、とあっては…………。
 夏休みの泊まりがけの臨海教室に、清は始めて参加した。出がけに気のすすまないふうにしているのを、発作が起こるのを心配しているのかと、僕らは励ましたのだったけれど……。
 その時、なにがあったのか詳しいことは知らない。清はけして言わないし、反省文集のなかでも、多くは書かれていない。朝になったら廊下で布団もなく泣き寝入りしていたと、担任が一日早く連れ帰ってきたときにはすでに高熱を発してフラフラで、そのまま夏休みの残りを、また病院で過ごした。
 二学期。自家中毒の症状がはじまり、幾度も吐いた。喘息はほとんどよくなっているのに、原因不明の熱が出たりして、学校を休む日が続いた。
 本当に病気のあいだは、一度も学校へ行けないのを苦にする様子を見せなかった清が、朝、母が欠席の電話をかける度に泣き笑いの顔をして、ひどく自分を責める風で、ふさぎこみ、落ち込み。
 
 ようやく、何かがおかしいと両親と担任が連絡をとりはじめた頃、
 
 
 

 
 大野は、行政上では加賀県の最南端にあたり、地形・交通の便からいえば、長野の北西端になる。
 市に昇格したのは割合さいきんだが、江戸期には小なりといえど歴とした独立したひとつの藩であり、大政奉還以来も、明治から緑慶の時代に至るまで、
  

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