『 たまねぎ小唄 』 (@中学3年くらいかな?)
2006年7月29日 連載(2周目・大地世界物語)たまねぎ小唄
(たまねぎ(ニー)の みそしる(テル/エル)の 歌(トルタ))
1.たまねぎのおつゆは 不思議と甘い
不思議と甘い
不思議と甘い
たまねぎのおつゆは 不思議と甘い
あの娘の作った
たまねぎのおつゆ。
2.たまねぎのおつゆは 冷めてもそれでも
不思議と甘い
不思議と甘い
たまねぎのおつゆは 冷めてもそれでも
あの娘の作った
たまねぎのおつゆ。
3.たまねぎのおつゆは 薄めて飲んでも
不思議と甘い
不思議と甘い
たまねぎのおつゆは 薄めて飲んでも
あの娘の作った
たまねぎのおつゆ。
4.たまねぎのおつゆは なぜだか苦い
なぜだか苦い
なぜだか苦い
たまねぎのおつゆは なぜだか苦い
自分で作った
たまねぎのおつゆ。
※ ダレムアスでは歌は多く即興で作られ、自分で定めたその歌のパターンの中において、わずかな歌詞の変化と歌い方で、どれだけ豊に感情を表現できるかが、その良し悪しの基準になる。(ダレムアスには
"たまねぎ戦士の歌" (女剣士「たまねぎ娘」の物語)("ルワブラダ・ミアニーア・エル・クアルトン" )(地球語=ティカーセルロク)(※)からの転作と言われ、「大地にそびえる木々たちの根っこの先から梢の先までの間(=大地世界ダレムアスにおける人間たちの住む地をさす)」のかなり広域の人々に親しまれている。この歌に限らず、ダレムアスでは歌詞の解釈ということに関してかなりの自由勝手が許されていて、一見平凡な恋歌風のものが歌い手の気分や社会的背景によって風刺から生の讃歌、祈り、深い哲学的思索を歌ったもの……と、それこそ千変万化をとげる。そのまったく同じ歌が普段は労働の際の口すさびとして意味などおかまいなしに繰り返される。また替え歌が、とりたてて「替える」という意識さえ持たれ得ない程に一般化しているので、ひとたび作者の口から出てしまえば、その詠まれた旋律は万人のものと化していくらでも新しい歌詞が付け加えられてゆく。(*)上代の古い旋律にのって最新の風刺が流行したり、逆に古詩(必ずしも曲つきのものとも限らないが)が編み出されたばかりの手法を用いて全く違った風に歌われるなどの例は一々か数え上げようなどという気を起こさせないほどである。
(※ 正確には、大地世界語地球方言が更に地球風になまったもの)。
(*歌詞の不出来なところ、旋律のなめらかでないところなどが情容赦なく改作され続けて、ついには題以外原型をとどめなかった極端な例すら存在する。この場合にも作者の作品を一方的に変える、という意識はなく、一人の提案したものを皆の協力で完成させる、といった雰囲気に近い。つまりダレムアスにおいては、歌の所有権は存在せず、( "持ち歌" という意味ではまた別である)、「誰々の」歌ではなく常に「どこそこの」歌なのである。)
このニーテルトルタにしても同じ旋律(歌詞)の別の曲などはいて捨てるほどあり余り、まして少しづつもじったものに至っては「この世に現われては去って行き続ける」人々の数倍のオーダーに昇ることだろう。
このうち、約○万年前(※ダレムアトの平均寿命が約300年以上あることを考慮してほしい)に旧・大都(たいと)で作られた時の姿をそのままたもっているのは1番だけであり、それでさえむしろ非情に珍しい例である。
ダレムアスにおいては、あまりに万人が歌舞音曲に通じている為にかえって吟遊詩人などの職業的音楽家が存在し得ない。食卓での会話の合い間に歌が混ざらない方がおかしい程、「音楽」というものが生活になじんでいるのである。(神楽者(かぐらじゃ)などのような神殿づきの音楽師も同様である。彼らも普通の神官であり、ただ祭祀の折に歌曲を奉納する役を負っているので失敗のないよう練習しているという名目である)。
(ダレムアス民謡論試論)
モンゴルでは、すもう(?)の後、勇者がわしの舞をするのにあわせて
行事役の若い女性がろうろうと勝者をたたえる歌をうたう。
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